東京都千代田区の神田明神(かんだみょうじん)は徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた1603年(慶長8年)から、15代将軍慶喜の大政奉還により王政復古が行われた1867年(慶応3年)まで、江戸総鎮守として国を護ってきた神社です。
265年もの長い間、江戸幕府の長期安定政権と社会の平和を支えてきた現世ご利益は絶大です。
普段から参拝者は多いですが、仕事始めの時期になると商売繁盛や事業繁栄などの祈願に数千社を超える企業、そして一流企業家が参拝に訪れるほどの神社です。
この記事では、神田明神ならではの魅力やご利益、必ず手にしたい授与品、おすすめの参拝順路と参拝方法などをまとめました。
毎年数千社を超える企業や一流企業家が継続して参拝に訪れるということは、それだけ商売繁盛のご利益があるということです。特に経営者の方はぜひ一度神田明神に足を運んでみてください。
*授与品の金額はお受けした当時の金額です。
神田明神のご利益
神田明神の御神徳はこちらです。
- 商売繁盛
- 事業繁栄
- 縁結び
- 開運招福
- 除災厄徐
- 家庭円満
- 夫婦和合
- 病気平癒
神田明神の御祭神は一之宮が大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮が少彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮が平将門命(たいらのまさかどのみこと)です。
大己貴命が縁結び、少彦名命が商売繁昌、平将門命が除災厄除の御神徳をお持ちです。
商売繁盛と縁を結び、降りかかる厄災を祓って事業の繁栄を守護してくれます。
神田明神で必ず手にしたい授与品
神田明神で必ず手にしたい授与品は3つあります。
①みのり守護
みのり守護は黄金色に輝いたカード型御守りに「実りの象徴である稲穂」が入っている御守りです。
小さいサイズなのでお財布に入れて普段から持ち歩くのがおすすめです。米俵に乗った大己貴命(おおなむちのみこと/だいこく様)が願い事を叶えてくれます。(初穂料一体800円)
②えんむすび守り
神田明神の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと/だいこく様)は縁結びの神様で有名です。
男女の縁だけでなく、金運上昇や商売繁盛、千客万来など目には見えない運も含め、全ての物事の縁を結んでくれます。(初穂料一体1,000円)
③金運守
金運上昇なら黄金色の金運守がおすすめです。
金運守に描かれている神田明神の神紋「流れ三つ巴(ともえ)」は厄払い・除災の御利益があります。(三つ巴は武神を祀る神社に用いられることが多い)
厄を祓い金運を招いてくれる御守りなので、カバンなどに入れていつも持ち歩きましょう。(初穂料一体800円)
神田明神ならではの魅力
神田明神ならではの魅力は7つあります。
①だいこく様尊像
隨神門(ずいしんもん)を通った左側には、一の宮の御祭神「大己貴命(おおなむちのみこと)」の御神像であるだいこく様尊像が建っています。打ち出の小槌を持って米俵に乗った姿が特徴的です。
石造りとしては日本一で、高さ6.6m、重さ約30tの巨大な御神像です。(昭和51年完成)
②えびす様尊像
だいこく様尊像の裏(神田明神文化交流会館(EDOCCO)の隣)には、二の宮の御祭神「少彦名命(すくなひこなのみこと)」の御神像であるえびす様尊像が建っています。
人々の願いを掌にのせて神様に伝え、神様からの恵みをあなたに届けてくれる姿を表現しています。
③隨神門
朱塗りの隨神門(ずいしんもん)は昭和50年(1975年)に昭和天皇御即位50年の記念事業として総檜造り・入母屋造りで再建が始まり、その翌年に建立されました。
左右には隨神像が奉安されていて、隨神門の内側には「因幡の白兎」と大己貴命(おおなむちのみこと/だいこく様)の神話が描かれています。
外回りには四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻も飾られています。東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が配置されています。
四神(ししん/しじん)とは
中国神話に登場する聖獣。東西南北を司る。東は青龍(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、南は朱雀(すざく)、北は玄武(げんぶ)が守護する。
こちらは玄武の彫刻です。
二層目には平将門公(たいらのまさかどこう)に由来する繁馬なども飾られていて、日本の伝統文様も見ることができます。
④獅子山
本殿右側には江戸時代から残る石造物「獅子山」があります。
この親子の獅子は「坂東三獅子」として有名で、伝統芸能の能の出し物「石橋(しゃっきょう)」を造形化したものです。
石橋(しゃっきょう)とは
親獅子が子を谷底に突き落とし、這い上がってきた子を我が子とする内容。
かつては境内参道の両脇に建っていましたが関東大震災により崩壊しました。二頭の親獅子は保存できたので、平成元年(1989年)今上天皇陛下の御即位を奉祝して子獅子を新調し、新たに「獅子山」として建立されました。
石獅子は武州下野の名工 石切藤兵衛が生涯でわずか3つしか造らなかった中の1つで、千代田区指定有形文化財になっています。神田明神の中でも歴史深い建造物の1つです。
⑤祭祀殿(資料館)
本殿の隣にある祭祀殿(資料館)は1階が慰霊祭を行う祭祀殿で、2階と3階は「神田明神に伝わる神宝」や「江戸東京文化を伝える貴重な資料」などが展示されています。
平将門公の御真影や1000年以上も前に平将門公が実際に彫ったとされる妙見さん(将門公が氏神として崇めていた神)の御神像、巨大な神武天皇山車人形など、神田明神でしか拝観できない歴史物を見ることできます。
【開館日】土日祝祭日の10:00〜16:00
【拝観料】300円
⑥日本三大祭りの1つ神田祭
出典 神田明神
神田祭は東京を代表する賑やかで壮観な祭礼で、日本三大祭りや江戸三大祭りの1つとして有名です。
神田祭は2年に一度「丑・卯・巳・未・酉・亥」の年には本祭が、この年以外は蔭祭(かげまつり)が行われます。
蔭祭(かげまつり)とは
神輿などが出ない規模が小さいお祭り
神田祭は毎年5月15日に近い日曜日を中心に5日間に渡って開催されます。
5月15日に近い日曜日の3日前(木曜日)の午後7時には、御祭神の御神霊を鳳輦・お神輿に移す鳳輦神輿遷座祭(ほうれんみこしせんざさい)があります。神田祭の始まりを告げる神聖な神事です。
金曜日の夕刻には全108町会のお神輿に三柱の御神霊を移す「氏子町会神輿神霊入れ」が、神田明神の神職たちにより厳粛に執り行われます。
土曜日には見所の第一弾「神幸祭」が始まり、朝8時に神田明神を出発します。美しく豪華な三基の鳳輦やお神輿を中心に、山車などを曳いた氏子たちをはじめとする人々が各地区を巡り、町々を祓い清めて神様の御神威を与えてくれます。
夕方には江戸時代も人気があった神田祭の1つ附祭(つけまつり)と合流し、花咲か爺さん・浦島太郎・鳥天狗・白龍などの曳き物(ひきもの)や仮装した踊り子たちが音楽を奏でながら神田明神へと向かいます。
曳き物(ひきもの)とは
巨大なはりぼての人形
数千人規模で巡行する姿は今も昔もお祭りを楽しむ人々の注目の的になっています。
土曜日から日曜日にかけて神輿宮入(みこしみやいり)が行われます。これが神田祭の見所の第二弾です。
大小200を超える各町のお神輿が朝から晩まで続々と神田明神に宮入します。大鳥居から随神門をくぐり境内に進むお神輿や、すでに境内に宮入した担ぎ手たちの掛け声と熱気には圧倒されます。
火曜日には献茶式や神田明神伝統の能・狂言などの奉納があり、水曜日には神田祭を締めくくる例大祭が行われます。これは日本の繁栄・平和祈念・氏子の幸せを祈願する祭事で、神田祭の中で最も大切にされています。
神田祭の例大祭が9月15日に執り行うようになったのは、慶長5年(1600年)西軍・石田三成公との天下分け目の関ヶ原の戦いで、徳川家康公が戦勝の祈願を行い、9月15日に見事勝利を治めて天下統一を果たしたことがきっかけです。
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徳川将軍家は9月15日を縁起の良い日と定め、祭礼として絶やすことなく執り行うように命じた。(現在は5月15日に近い日曜日を中心に行う)延宝年中(1673年~1681年)まで毎年行われていたが、それ以後は赤坂の日枝神社 山王祭と隔年で斎行することになり、本祭は2年に一度になった。神田祭が天下祭となったのは元禄元年(1688年)徳川五代将軍綱吉の時代から。神田育ちの綱吉公は特に神田明神を崇敬していた。祭礼行列が江戸城内に入るようになり、山車などを曳く姿や庶民たちの踊りなどを将軍家、御台所、大奥の女中たちが見物して楽しんだ。城内に入り、天下人の将軍に会うことが許されたので、庶民たちから天下祭と呼ばれるようになる。
明治時代も江戸時代と同様に盛大に行われていたが、明治25年(1892年)台風の影響などから祭礼月を9月から5月に移し、不景気や電線架線などによって派手な山車を曳く附祭なども徐々に姿を消すことになった。戦前戦中は関東大震災や太平洋戦争の影響で中止されることが多くなり、戦後初めて祭礼が行われたのは終戦から7年後の昭和27年(1952年)のこと。平成13年からは附祭も復活し、今でも日本三大祭りに相応しい盛大なお祭りになっている。
⑦御霊砂
神田明神では春分の日と秋分の日に最も近い「戊(つちのえ)の日」に参拝すると御霊砂を頂くことができます。この参拝のことを社日参り(境内末社巡り)と言います。
御霊砂は玄関や土地に撒いたり、小袋に入れて御守りにして持ち歩きます。家に撒けばその場に溜まっている邪気を祓い、御守りにすれば厄除けや開運の御神徳が期待できます。
古くから社日参りは五穀豊穣や身体健康などを祈願するものでした。次の7つの石鳥居をくぐるとぼけ封じの御利益があると言われています。
- 魚河岸神社(水神社)
- 小舟町八雲神社
- 大伝馬町八雲神社
- 江戸神社
- 浦安稲荷神社
- 三宿稲荷神社・金刀比羅神社
- 合祀殿
都内では7つの石鳥居が揃った神社は珍しいので、社日参りの日は多くの参拝者が集います。
神田明神とは
神田明神は正式名称を神田神社と言い、江戸東京に鎮座してから約1,300年の歴史ある神社です。江戸時代は江戸総鎮守として国を護ってきた神社で、江戸の中では最も有名な神社でした。
現在も東京都心の神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様として崇められています。
なお、神田明神の「かんだ」の由来には
- 神社を創建した真神田氏の名から取った
- 将門公の片目を射抜かれたという伝説から「かため」がなまって「神田」になった
- 伊勢神宮に奉納する初穂を作る神の田んぼ=神田(みとしろ)をかんだと読ませ名付けられた
など、様々な説があります。
神田明神の御祭神
神田明神の御社殿には次の三柱の神が祀られています。
- 一之宮…大己貴命(おおなむちのみこと/だいこく様)
- 二之宮…少彦名命(すくなひこなのみこと/えびす様)
- 三之宮…平将門命(たいらのまさかどのみこと/まさかど様)
大己貴命(おおなむちのみこと)とは
神田明神一之宮の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。だいこく様の愛称で親しまれています。
大己貴命は国土開発、殖産、医薬や医療に大きな力を発揮した神様です。国土経営、夫婦和合の神としても崇敬されています。
また、大己貴命は目には見えない世界のむすびの御霊力を司り、幽世(かくりよ)の世界を治める神様でもあります。
幽世(かくりよ)とは
永久に変わらない神域。目には見えない死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる世界。
神田明神では大己貴命は建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)の子と伝わります。
古事記では須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、日本書紀では素戔嗚尊の子、または七世の孫と伝わっています。
神田明神では「大己貴命/だいこく様」の御神名で祀られていますが、他の神社では次のような御神名で祀られていることもあります。
- 大国主命(おおくにぬしのみこと)
- 大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)
- 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
- 幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
- 幽世大神(かくりよのおおかみ)
- 八千矛神(やちほこのかみ)
大己貴命(大国主命)を御祭神として祀る最も有名な神社は島根県の出雲大社です。
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【年に一度】出雲大社の神迎神事|八百萬の神のご利益で最強運を引き寄せる
出雲大社では旧暦の10月10日の夜、出雲大社の西にある稲佐の浜で全国の神々をお迎えする神迎神事(かみむかえしんじ)が行わ ...
大己貴命は誰にでも優しく、困り事や弱者の味方になってくれる神様です。それを象徴する「因幡の白うさぎ」を助ける神話があります。
因幡の白うさぎの神話
大己貴命には八十神(やそかみ)という大勢の兄弟がいた。八十神は因幡国の美しい八上比売(やかみひめ)に求婚しに行こうと決め、大国主大神に袋を持たせて因幡国に向かう。八十神が因幡国の気多の岬(現鳥取県鳥取市付近)を通りかかった時、体の皮が剥かれて泣いている一匹の哀れなうさぎを見かけ、兄弟たちが「海水を浴びて風にあたるとよい。」と意地悪をして嘘を言うと、うさぎは言われるがまま海に飛び込み、風当たりの良い丘の上で風に吹かれていたが、海水が乾いて傷がさらにひどくなり痛み出してしまう。そこへ兄弟たちの荷物を持たされ、後を追ってきた大己貴命がやってきて、泣いているうさぎにどうして泣いているのか訳を聞くと、うさぎはこう言った。
私は隠岐島(おきのしま)に住んでいて、気多の国(現鳥取県気高群)に泳がないで渡る方法を考えていました。そこにワニ(サメ)が来たので、彼らの背中を利用するために「私の仲間の数とどっちが多いか比べよう。」と話を持ちかけました。私は数を数えるふりをしながらワニたちの背中を歩き、気多の岬まで渡ろうとしましたが、岬に着く寸前で「お前たちは私に騙されたのだ。」と言ってしまい、これに怒ったワニたちが仕返しに私の体の皮をすべてを剥いてしまったのです。痛くて泣いている私は先ほどここを通られた神々(八十神)の教えに従ったところ、前よりももっとひどくなり痛くて泣いていたのです。
それを聞いた大己貴命は「すぐに真水(川の水)で体を洗いなさい。川口の蒲(がま)の花を摘んで敷きつめるからその上に寝転ぶと良い。」と言った。それに従ったうさぎは体から毛が生えはじめ、元通りの白兎に戻った。助けてもらった白うさぎは「大勢の兄弟たちは八上比売を手に入れることはできません。袋を背負っていて遅く登場したとしても、あなた様が手に入れるでしょう。」と予言をする。大己貴命が兄弟たちよりずい分遅れて因幡の国に着いた時、兄弟たちは八上比売に求婚していたが、八上比売が選んだのは白うさぎを助けた大己貴命だった。
中世以降は神仏集合により仏教の守護神である大黒天と習合し、「だいこく様」として多くの地域で祀られるようになります。
だいこく様の御神像や御神絵は必ずと言っていいほど大きな袋を背負っていますが、これは白兎に出会った時の姿であると神田明神に伝わります。
少彦名命(すくなひこなのみこと)とは
神田明神二之宮の御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)です。えびす様の愛称で親しまれています。
少彦名命は大己貴命と共に国造りをした神様で、商売繁昌、開運招福、国土開発・事業繁栄の御神徳があります。
また、医療の教えを全国各地に広めた病気平癒・健康増進の祖神でもあります。
神田明神や日本書紀では少彦名命は造化三神の一柱「高皇産霊神(たかみむすひのかみ)」の御子神であると伝わり、古事記では神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子神であると伝わります。
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少彦名命は大己貴命が出雲の御大の岬(みほのみさき/現松江市美保町)にいた時、大海の彼方の常世(とこよ)の国より天之羅摩船(あめのかがみのふね/ガガイモ(つる性の植物)のさやでできた船)に乗って訪れた。大己貴命が「貴方は誰ですか」と聞くが少彦名命は答えなかった。その時、多邇具久(たにぐく/ひきがえるの化身)がかかしの久延毘古(くえびこ/天下の事なら全て知っている神)なら知っていると言ったので尋ねると、「神産巣日神の御子の少名毘古那神(少彦名命の別称)です。」と答えた。大己貴命は神産巣日神に問うと「確かに我が子です。私の手の指の間からこぼれ落ちた子。」と言い、少彦名命に「大己貴命と兄弟となって国造りを果たせ。」と命じた。
手のひらに乗るほどの小さな姿ながら知恵に優れ、大己貴命と共に国造りをする際には農業技術や医薬なども伝えて人々に幸せをもたらした。その後、少彦名命は常世の国に渡ってしまった。その姿から神話世界の一寸法師であるという説や、アイヌ神話に登場する小さな神様コロボックルであるという説がある。
出雲国風土記(出雲国の歴史書)では大己貴命と共に各地を巡り、稲種をもたらした穀霊として伝わり、日本書紀では穀物を荒らす様々な害虫害鳥を追い払うおまじないを伝えた神と伝わっています。
記紀に伝わる神功皇后の御代大殿の御歌には酒の神として登場することから造酒の神と崇められています。
伊予国風土記(愛媛県一帯の国の伝書)の逸文では、伊予国で病にかかった少彦名命のために大穴持命(おおあなもちのみこと/大己貴命の別称)が大分の速見湯(現別府温泉)を持ってきて回復したという説話があり、この二柱を温泉の神・医療の神として祀る神社が多くあります。
神田明神では明治7年(1874年)茨城県大洗磯前神社の少彦名命の御分霊を二の宮にお祀りしたのが起源です。
なお、神田明神では少彦名命をえびす様といいますが、多くの地域では事代主神(ことしろぬしのかみ)や蛭子神(ひるこのかみ)をえびす様として祀っています。これはえびす信仰の違いに理由があります。
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事代主神をえびす神として祀るえびす社(約3,385社)の総本宮は島根県の美保神社。事代主神は魚釣りを好み、右手には釣り竿、左脇に鯛を抱える福徳円満を象徴する御神影は一般的なえびす様の起源になっている。漁業の祖神として水産・海運・商業に携わる人々から厚く信仰され、御親神である大国主神(だいこく様)と共に祀られることが多いので、事代主神がえびす様であるという信仰が広く伝わっている。
蛭児大神をえびす神として祀るえびす社(約3,500社)の総本宮は兵庫県の西宮神社。はるか古に大阪湾の海岸に蛭児神像が流れ着き、それを祀ったのが現在の西宮神社。これにより蛭児神をえびす様として信仰する地域が関西を中心に増えた。
多くのえびす信仰では「海を司る神や海から来る神霊がえびす様である」との伝承があり、神田明神も海から流れて来た漂着物をえびす様として祀る信仰があった。この漂着物は諸国から漂着する文明的なものだけでなく、形の変わった石やクジラ、イルカの死体さえも「えびす」とし、大漁を呼ぶものだと考えられていた。実際に少彦名命ご尊像の解説には、「えびす様は七福神のお一人で商売繁盛の神様として、また魚群を岸に追い込み大漁をもたらすイルカやクジラにも例えられる海の幸を象徴する神様です。」と伝えている。また、少彦名命は海の彼方にある常世の国から訪れ様々な文化をもたらした神様なので、そんな異世界から来た神をえびす様と考え、福をもたらしてくれると崇めるようになった。ちなみに神田明神と同じように愛媛県の道後温泉、島根県の玉造温泉、神奈川県の箱根温泉などの地域でも少彦名命をえびす様として祀り、温泉の神・医療の神として崇敬されている。
このように地域や歴史上の文献、えびす信仰によって、そのまま当てはまる神様をえびす様と同一視している。ちなみにえびすの語源は奈良時代以前から。当時東北に住む人々を「蝦夷(えみし)」と言い、その発音がなまり、平安時代初期より「えみし→えみす→えびす」と変化した。戎・夷・胡といった漢字に当てられ、神仏集合により七福神の恵比寿・恵美須で表されることも多い。
平将門命(たいらのまさかどのみこと)とは
神田明神三之宮の御祭神は平将門命(たいらのまさかどのみこと)です。まさかど様の愛称で親しまれています。
平将門命は平安中期(900年代)に活躍した平将門公の御神霊です。このように実在した人物を神様とすることを人神(ひとがみ)と言います。
平将門命は除災厄除の御神徳がある神様です。延慶2年(1309年)に神田明神に祀られてから「まさかど様」の御神名で親しまれています。
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将門公は桓武天皇の5代目子孫だが、京都の朝廷(朱雀天皇)に対抗。武士の先駆け「兵(つわもの)」として関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守った。朝廷からは反乱を起こした敵とされ、天慶3年(940年)に藤原秀郷らの軍勢に討たれるが、東国の民は将門公を英雄と称えてその伝説を語り続けた。
嘉元・徳治(1303年~)の頃、平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で自然災害などの天変地異が起こり、疫病も大流行したが、将門公の怨霊の祟りが原因と信じられるようになる。その地に訪れた時宗の遊行僧 真教上人が将門公の御霊を弔い「蓮阿弥陀仏(はすあみだぶつ)」の法号を与え、塚を修復して御霊をお慰めすると疫病は止んだ。さらに真教上人は近くの神社(当時の神田神社)を修復し、そこに将門の霊を合祀した。(真教上人は祟り神であった平将門命を鎮護の神へと変えた人物となる)戦国時代になると平将門命は武運の神様として徳川家康公をはじめ戦国武将の太田道灌や北上氏綱などから崇められた。
明治7年(1874年)に摂社の将門神社に御遷座されましたが、昭和59年(1984年)に再度本殿に奉祀され今に至り、平将門命は祟りを起こす荒々しくも頼もしい神として、そして人々を災いから守る神として崇敬されています。
ちなみに、千葉県の成田山新勝寺は平将門公を調伏するために建てられた歴史があり、それによって神田明神と成田山新勝寺の両方をお参りすると祟りがあると言われていますが、そんなことは一切なく心配はないと神田明神は伝えています。
神田明神の歴史
社伝によると天平2年(730年)に大己貴命の子孫 真神田臣(まかんだおみ/出雲氏族)により、武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町将門塚周辺)に大己貴命を祀ったのが起源です。
江戸幕府が開かれると神田明神は幕府の尊崇神社となり、元和2年(1616年)幕府によって江戸城の表鬼門(北東)守護の場所にあたる現在の地に美しい社殿が造営されます。
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江戸城の表鬼門(北東)は神田明神が、江戸城の裏鬼門(南西)は東京赤坂の日枝神社(ひえじんじゃ)が守護している。
将軍が崇敬する神社の証として葵の紋章が社内殿に刻まれるようになり、江戸総鎮守社として幕府をはじめ江戸庶民に至るまで崇敬されてきました。
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寛文元年(1616年)、延宝7年(1680年)、元禄4年(1691年)の社殿の棟札には「御府内(江戸)総鎮守」「江戸総鎮守」と書かれていた。
三代目将軍家光の代には「平将門は朝敵に非ず(平将門は朝敵ではない)」という判断が朝廷より下ったことで「平将門命は神田明神の御祭神である」「平将門命は御神威がある」ことが益々広がりますが、江戸時代の1840年代から1870年代にかけて行われた上知令(江戸幕府や明治政府が出した土地没収の命令)により、約一万坪あった御神域は約四千五百坪まで減ってしまいました。
明治時代に入ると神田明神から神田神社に社名を改称し、東京の守護神として「准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)」「東京府社」に定められます。
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准勅祭社とは祭礼の際に天皇より使者の遣いが出される神社。東京府社とは明治政府が定めた東京で格の高い神社のこと。(第二次世界大戦で等級化されていた神社制度は廃止となる)
明治7年(1874年)には明治天皇がはじめて東京に皇居を定めたことで、神田明神に御参拝され御幣物を献じられました。当時東京の神社に訪問したのは靖國神社と神田明神だけだったそうです。
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明治天皇が参拝するにあたり、逆臣である平将門命は御祭神から外され、代わりに茨城県大洗磯前神社の少彦名命の御分霊を祀った。平将門の御神霊は境内摂社に遷されたが、1984年(昭和59年)御社殿の御祭神に復帰した。
大正12年(1923年)関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失しますが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々によって復興計画が行われ、日本初となる鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿で再建されました。(昭和9年/1934年に完成)
国内の神社としては初めての地下通路も造られていて、現在では御社殿、明神会館、文化交流会館を地下道で結んでいます。(今は神田明神や神田祭の歴史を伝える浮世絵などのギャラリーとなっている)
昭和20年(1945年)の東京大空襲では東京の地が一面焼け野原となってしまい、境内の建造物もすっかりなくなってしまいましたが、耐火構造の社殿は損傷のみで戦災を耐えました。
戦後以降、昭和26年(1951年)に結婚式場、昭和41年(1966年)に明神会館、昭和51年(1976年)には総檜木造り・入母屋造りの隨神門が建てられました。
平成7年(1995年)より「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復や塗替え、資料館の創建など境内整備が進められます。
平成17年(2005年)には神札授与所・休憩所を備えた鳳凰殿(現在の神田明神文化交流会館)、氏子のご先祖を祀る祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められて今に至ります。
神田明神のおすすめの順路と参拝方法
神田明神のおすすめの順路と参拝方法をご紹介します。境内図も合わせてご確認ください。
*神社の鳥居は一般社会と御神域を区切る結界であり、くぐることで穢れを祓う(修祓 / しゅばつ)意味合いがあります。鳥居をくぐらずに神様にお目見えするのは失礼にあたるので、鳥居を通してお社の正面を撮ることができないお社の写真は掲載していません。
①大鳥居をくぐる
大鳥居をくぐって隋神門の方へ向かいます。
②手水舎で身を清める
隋神門の左側に手水舎があるので身を清めます。
③隋神門を通る
隋神門を通って御社殿に向かいます。
ちなみに、隋神門の隣には千社札(せんじゃふだ)納札所があります。
千社札(せんじゃふだ)とは
神社仏閣に参拝した記念として貼る自分の名前や住所を書き込んだ札。
社務所に届け出れば誰でも千社札を納札できます。
④御社殿で参拝
神田明神の御社殿のご祭神はこちらです。
- 一之宮…大己貴命(おおなむちのみこと/だいこく様)
- 二之宮…少彦名命(すくなひこなのみこと/えびす様)
- 三之宮…平将門命(たいらのまさかどのみこと/まさかど様)
御社殿前には神殿を守る狛犬が建っています。右側は口が開いている阿形の狛犬で、
左側は口を閉じている吽形の狛犬です。
一般な神社の狛犬は向き合っていますが、神田明神の狛犬はどちらも正面を向き、「都会の邪(よこしま)なもの」や「災い」が入ってこないように遠くまで見守っています。
御社殿前には千代田区指定文化財の鉄製天水桶(防火用水などに使うため雨水を溜める目的のもの)や、
明治天皇御臨幸記念碑が建っています。
御社殿左側には祈願串納所と神馬「御幸号(愛称あかりちゃん)」がいる建物があります。あかりちゃんの「明」は神田明神の明から取って付けられました。
神馬は神社に奉納されたお馬さんで、古来より神様が人間界に降臨する時の欠かせない乗り物です。神馬がいる神社は珍しいので見所の1つです。
私が参拝した時は散歩中でしたので写真を撮ることができませんでした。
御社殿を正面にした左手、神田明神文化交流会館(EDOCCO)の前にはだいこく様尊像があります。
だいこく様尊像の前にはお百度石や、
御神木があります。
だいこく様尊像の裏(神田明神文化交流会館の隣)にはえびす様尊像があります。海の仲間(イルカ・タイ・トビウオ)に守られて大海原を渡るえびす様の姿をイメージして造形されたそうです。
えびす様尊像の前には獅子おみくじもあり、お賽銭を入れると獅子が踊ります。
ちなみに、神田明神文化交流会館(EDOCCO)は天平2年の創建から約1,300年を迎えた記念に、参拝者や外国の方に広く日本の伝統文化を伝える目的で平成30年(2018年)に建てられました。
「伝統×革新」がコンセプトの施設は4階建(地下1階)で、1階には授与所・御祈祷受付・飲食店やお土産物店など、2階と3階は多様な伝統文化と交流するイベントホール、4階は屋上庭園になっています。
授与所では御朱印や授与品を頂けます。こちらが神田明神の御朱印です。(初穂料各300円)
⑤魚河岸水神社(水神社)で参拝
御社殿左側にある魚河岸水神社(うおがしすいじんじゃ)で参拝します。御祭神は水を司る神「弥都波能売命(みづはのめのみこと)」です。
魚河岸水神社は日本橋に魚市場があった頃、徳川家の武運長久・大漁安全を祈願するために建てられた神社です。
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魚市場の守護神「大市場交易神(おおいちばこうえきしん)」として旧神田神社境内(将門塚周辺)で祀っていたが、神田明神の移建と共に現在の地に移った。明治6年(1873年)には当時魚市場内にあった常磐稲荷神社に移るが、明治24年(1891年)に魚河岸水神社と改め、明治34年(1901年)再び神田明神境内で祀られた。今でも築地市場内には魚河岸水神社の遥拝所があり、そこでお参りすると神田明神の魚河岸水神社を拝めるようになっている。
社殿前には漁に見える文字が描かれている天水桶や、
大正13年(1924年)神田日本橋の人々により建立された神田日本橋桶工水溜講の石碑が建っています。
⑥小舟町八雲神社で参拝
魚河岸水神社の隣にある小舟町八雲神社(こぶなちょうやくもじんじゃ)で参拝します。御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。
建速須佐之男命は大己貴命(だいこく様)の御親神で、天照大御神の御弟神でもあります。
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出雲国に天降りした時、肥河上(現島根県斐伊川上流)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して人々を救った神様。荒ぶる性格を持つが、災いを祓ってくれる頼もしい神様として厚く信仰されている。神仏習合の時代からは牛頭天王(ごずてんのう)と習合し、疫除けの神として多くの神社で祀られている。
小舟町八雲神社は江戸時代より前に建っていた古社で、元々は小舟町牛頭天王社(こぶなちょうごずてんのうしゃ)と言います。
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当初は江戸城吹上御苑(えどじょうふきあげぎょえん)で祀っていたが、元和2年(1616年)に現在の地へ移った。江戸時代には祇園牛頭天王社とも呼ばれていて、小舟町八雲神社と江戸神社、大伝馬町八雲神社(大伝馬町牛頭天王社)の三社を「牛頭天王三社」や「江戸の三天王」と称し、江戸全域の人々に崇敬されていた。
ちなみに、社殿前の鉄製天水桶は千代田区指定有形民俗文化財です。
⑦大伝馬町八雲神社で参拝
小舟町八雲神社右側の大伝馬町八雲神社(おおでんまちょうやくもじんじゃ)で参拝します。御祭神は小舟町八雲神社と同じく建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。
この神社は江戸神社や小舟町八雲神社と共に創建された神社で、日本橋周辺で織物などを扱う商人(問屋)たちから厚く崇敬されてきました。(当時は大伝馬町牛頭天王社と呼ばれていた)
社殿前には高さ1.4mの鉄製天水桶があり、天保10年(1839年)日本橋周辺で商売をしていた方々によって奉納されました。
⑧江戸神社で参拝
大伝馬町八雲神社右側の江戸神社で参拝します。御祭神は同じく建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。
江戸神社は元々武蔵国豊嶋郡江戸の地(現在の皇居内)で、江戸最古の地主神として祀られていました。鎌倉時代は江戸氏の氏神でしたが、戦国武将 太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城する時に城地で祀ってからは上杉氏、北条氏などの氏族からも崇敬されてきました。
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慶長8年(1603年)江戸城の拡張により神田神社と共に神田駿河台の地に移り(仮遷座)、元和2年(1616年)神田明神が現社地に移ると共に江戸神社も移った。江戸時代になると「南伝馬町持天王」や「天王一の宮」などと呼ばれていた。明治元年(1868年)には須賀神社になるが、明治18年(1885年)社殿が焼失したことで再度「江戸神社」に改めた。 平成元年(1989年)今上天皇陛下御即位を記念して神輿庫を改修し、正式に御鎮座され今に至る。
千貫神輿が奉安されていますが、神田祭の時ではとても重いため千人が交替で担ぐそうです。
江戸神社付近には大正9年(1920年)に建立された角田竹冷(俳句革新運動の展開者)の句碑があり、「白うをや はばかりながら 江戸の水」と書かれています。
「白魚もとれる神田川の水は恐れおおくも、その昔将軍様のお茶の水にも召されたほど江戸一番の名水である」という意味です。
その隣には直径80㎝、短径67㎝の力石があり、文政5年(1822年)には柴田四郎右衛門が持ち上げたとされています。昔は若者たちが力比べに使っていたそうです。
江戸神社の真向かいには祭祀殿(資料館)があります。
⑨浦安稲荷神社で参拝
江戸神社の奥にある浦安稲荷神社で参拝します。御祭神は食物や穀物を司る宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
商売の神、子孫繁栄の神として崇められ「五穀豊穣・商売繁盛」の御神徳があります。
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元々、一漁村の住民によって江戸平川の河口付近(現内神田鎌倉周辺)でお稲荷さんを祀っていたが、天正年間(1573年~)徳川家康公が江戸入府の際にお社を創建し、城下町の守護神として京都の伏見稲荷大社の御分霊を正式に祀った。寛政9年(1797年)崇敬者により新社殿が造営されたことで浦安稲荷神社と称し、天保14年(1843年)神田明神境内に移った。その後、明治維新や戦災により復興できなかった内神田稲荷社5社も合祀して今に至る。
浦安稲荷神社の隣には鳳輦神輿奉安殿があり、神田祭の時に大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦(ほうれん)、少彦名命がお乗りになる二の宮神輿が奉安されています。
⑩三宿稲荷神社・金刀比羅神社で参拝
鳳輦神輿奉安殿隣の三宿稲荷神社(みしゅくいなりじんじゃ)・金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)で参拝します。このお社は二社の神々を相殿(あいどの)で祀っています。
相殿(あいどの)とは
二柱以上の神様を同じお社で祀ること
三宿稲荷神社の御祭神は五穀豊穣や商売繁盛の御神徳がある宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。
金刀比羅神社には次の三柱が祀られています。
- 大物主命(おおものぬしのかみ)…万物の根源・霊魂を司る神
- 金山彦命(かなやまひこのみこと)…鉱山・鍛冶・鉱物の神
- 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)…宇宙の根源神
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三宿稲荷神社の創建は不明だが、江戸時代より神田三河町の守護神として祀られていて、神田明神12代神主 芝崎美作守の邸内で祀っていた内山稲荷と合祀された。昭和41年(1966年)に社殿は再建され、金刀比羅神社との相殿になる。
金刀比羅神社は天明3年(1783年)に武蔵国豊島郡薬研堀(江戸時代、中央区東日本橋両国にあった堀の名)に創建されたのが起源。かつては神田川の船人たちの守護神として信仰が深まるが、町の発展と共に商売人に崇められるようになり、三宿稲荷神社の再建と共に両国町から神田明神境内に移された。
⑪末広稲荷神社
三宿稲荷神社・金刀比羅神社の右手にある末広稲荷神社(すえひろいなりじんじゃ)で参拝します。
御祭神は五穀豊穣や商売繁盛の御神徳がある宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、出世稲荷として崇敬されています。
創建は不明ですが、江戸初期(1616年頃)に宇迦之御魂神を祀ったと伝わる極めて古い神社です。今の社殿は昭和41年(1966年)に崇敬者によって建てられたお社です。
⑫合祀殿で参拝
末広稲荷神社の隣にある合祀殿で参拝します。
元々は籠職人などの方が御利益を願った籠祖神社がありましたが、平成24年(2012年)の建替時に「八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社」を合祀して7社の相殿となりました。
社伝によると籠祖神社は寛政7年(1795年)神田明神境内に御鎮座したと伝わっています。
合祀殿の右側には嘉永3年(1850年)~昭和36年(1961年)に奉納された石造物(記念碑や石標など)も残っています。
合祀殿には次の九柱の神々が祀られています。
- 猿田彦神(さるたひこのかみ)…籠祖神社
- 塩土老翁神(しおつちおじのかみ)…籠祖神社
- 誉田別命(ほんだわけのみこと/応神天皇)…八幡神社
- 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)…富士神社
- 菅原道真命(すがわらみちざねのみこと)…天神社
- 柿本人麿呂命(かきのもとひとまろのみこと)…天神社
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)…大鳥神社
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ)…天祖神社
- 建御名方神(たけみなかたのかみ)…諏訪神社
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猿田彦命は最善の道に導いてくれる道開きの神様。導きの神・航海安全の神として崇められている。塩土老翁神は山幸彦(神武天皇の祖父神)に竹籠の船を与えた神様で、籠造り職人始祖の神として信仰されている。
八幡神社は江戸時代、旧神田明神の時に連雀町(神田須田町・淡路町周辺)の町人によって祀られた。誉田別命は武の神様で必勝祈願・心願成就の御利益がある。源頼朝や徳川家康など歴代武将から崇敬されていたこともあり全国各地の神社で祀られている。
富士神社は文化12年(1815年)神田塗師町(鍛冶町周辺)の町人によって祀られた。木花咲耶姫命は富士山を守護している神様で、安産・子育て守護・火難消除の御神徳がある。
菅原道真公は平安時代の貴族で右大臣や太政大臣を歴任した方。政治家・学者・詩人としても優れていたことで学問・文筆の神様として崇められている。柿本人麿呂命は飛鳥時代の歌人。歌聖とも呼ばれた三十六歌仙の一人で、詩歌の神様として崇敬されている。享保年間(1716年~)菊岡沾涼(江戸砂子の著者)により御神像が祀られた。
日本武尊は大和朝廷の統一に貢献した日本の英雄神。文武の神様としても崇められていて、開運招福・国土安穏などの御神徳がある。文政年間(1818年~)社殿の建立時に祀られたと伝わる。
天照大御神は皇室の御祖先であり、日本の総氏神として崇められている神様。古来より境内(旧神田神社)に祀られていた。 建御名方神は大己貴命の御子神で、大己貴命と共に国造りをした武勇の神様。五穀豊穣・開運長寿・交通安全の神として崇められている。古来より境内(旧神田神社)に祀られていた。
なお、合祀殿の裏には日露戦争で没した神田区出身者生前の誠心を後世に伝えるために建てられた彰忠碑があり、
合祀殿の隣には日本画家 水野年方顕彰碑(千代田区指定文化財)が、
小唄塚・小唄作詞塚などの記念碑もあります。
その隣には神田祭の時に平将門命が乗る三の宮鳳輦が奉納されている三の宮奉安庫 (鳳輦庫)、
神田神社氏子神輿庫があります。
これで神田明神の参拝は完了です。
ちなみに、明神会館の方へ進むと「山茶花の散るや己の影の中」と書かれた阿部筲人(しょうじん)の句碑や、
江戸国学発祥の碑、
銭形平次の石碑と銭形平次の子分がらっ八の石碑もあります。
銭形平次の石碑には寛永通寶の銭形の印が刻まれています。
石碑を囲う石の柵にも寛永通寶が刻まれているのでチェックしてみてください。
明神会館の右側(男坂側)には御神木とさざれ石があります。
この御神木は江戸時代に月見の名所に植えられた公孫樹(いちょう)の木で、神田明神を見守ってきた御神木です。大正や昭和の災害でも崩壊しなかったことで、災難除け・厄除けの御神徳があると言われています。
神田明神境内外(神田明神文化交流館の裏)には千代田区重要文化財になっている「神田の家」もあります。(文化財指定名称は「遠藤家旧店舗・住宅主屋」)
神田の家は昭和初期の木造建築を移築した建物で、平日は庭が一般公開されています。カフェとしても利用できるので、休憩しながら歴史物を観覧できます。
神田明神のアクセスマップ
■神田明神
【住所】東京都千代田区外神田2-16-2
【アクセス】・JR中央線・総武線 御茶ノ水駅聖橋口より徒歩5分
・東京メトロ丸ノ内線 御茶ノ水駅1番口より徒歩5分
・東京メトロ千代田線 新御茶ノ水駅B1出入口より徒歩5分
・東京メトロ銀座線 末広町駅より徒歩5分
・JR京浜東北線、山手線、東京メトロ日比谷線 秋葉原駅電気街口より徒歩7分
東京メトロ銀座線 末広町駅、東京メトロ千代田線 湯島駅方面を利用する方は神田明神裏参道から向かうこともできますが、表参道から入る方がおすすめです。
【駐車場】十数台。社殿裏に無料駐車場があり、大鳥居をくぐり神門右側より入ることができる。(契約駐車場があるので注意が必要)
まとめ
神田明神は経営者の方に特におすすめです。神田明神に参拝して事業を繁栄させて行きましょう。