厄災を祓うなら京都府京都市東山区にある三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)がおすすめです。
千手観音に仕える二十八部衆が破邪の力で厄災を祓った上で、千手観音が慈悲と智慧の力で人が悩む問題を全て解決してくれます。
また、三十三間堂には引き寄せと願望実現に拍車をかける力を持つ風神と雷神も揃っているので、向かうところ敵なしの一大パワースポットとなっています。
三十三間堂の仏神 | ご利益 |
御本尊 千手観音坐像 | 慈悲と智慧の力で人が悩む問題を全て解決 |
千体千手観音立像 | 人を悟りの道へ導く |
二十八部衆 | 破邪の力でお清めお祓いをする |
風神 | 不幸や厄災を吹き飛ばす |
雷神 | 狙いを定めて願望を実現する |
この記事では、三十三間堂のご利益や三十三間堂の魅力、おすすめの順路と参拝方法などをまとめました。
現在、三十三間堂では平安末期に創建された当時の二十八部衆像の配置でその姿を見ることができます。
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二十八部衆像は従来1934年の修理以降の配置だったが、創建時とは異なる配置順であることが判明したので、2018年の千体千手観音立像の国宝指定を機に配置順を変更。尊名も本来の尊名とは異なっていた像があったため13体を改名。
ぜひ一度訪れてみてください。
*授与品の金額はお受けした当時の金額です。
三十三間堂のご利益
三十三間堂のご利益はこちらです。
- 厄災厄除
- 苦難除去
- 病魔退散
- 悪疫守護
- 諸願成就
- 平穏無事
- 頭痛平癒
- 病気(難病)平癒
- 奇病快癒
三十三間堂の御本尊千手観音は慈悲と智慧の力で誰にでも救いの手を差し伸べてくれる観音様です。
お金や健康、人間関係など、人が悩む問題は全て解決してくれます。
三十三間堂で必ず手にしたい授与品
三十三間堂で必ず手にしたい授与品は3つです。
①頭痛封じ守

三十三間堂 頭痛封じ守
頭痛封じ守はインドから伝わった秘呪「消伏毒害陀羅尼経(しょうぶくどくがいだらにきょう)」の小さい一巻が入っているお守りで、頭痛平癒・病魔退散のご利益があります。(冥加料500円)
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消伏毒害陀羅尼経の秘呪は三十三間堂に伝わる独特のものになる。
災いを消す力によりあらゆる憑依や邪氣から守ってくれるので、普段持ち歩くのがおすすめです。
【頭痛封じのお守り】
このお守りは、毎年1月に厳修される「楊枝のお加持」という法要で、加持された浄水を楊枝の枝で参拝者に灌頂する作法に因み、当院の楊枝の枝と供に秘呪「消伏毒害陀羅尼経」一巻を収めた効験ある”頭痛封じ”のお守りです。三十三間堂に伝わる独特のものであり、頭痛に悩む方は是非肌身につけて癒してください。(京 三十三間堂)(お守りに付いている案内より)
ちなみに、頭痛持ちだった後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の頭痛が治ったという伝承が三十三間堂にはあります。
後白河上皇の頭痛が治った伝承
ある時、頭痛持ちの後白河上皇が熊野御幸(くまのごこう)の際に頭痛平穏を祈願すると、熊野の神である熊野権現が現れ「京都の因幡堂(平等寺)の薬師如来に祈願せよ。」というお告げがあった。
因幡堂に参拝すると数日後の上皇の夢に僧侶が現れ、「あなたの前世は熊野の蓮華坊という修行僧です。仏道修行によって天皇へと生まれ変わりましたが、蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川に沈んでいます。髑髏の目の穴から柳の木が生え、風が吹くたびに髑髏が揺れ動くので頭痛が起こるのです。」と告げられ、岩田川(現和歌山県富田川)を調べさせるとお告げの通り髑髏が見つかった。
髑髏を三十三間堂の千手観音像の中へ納めて祀り、柳の木を梁(はり)にしたところ上皇の頭痛が治った。この伝承により三十三間堂は頭痛封じの寺として崇敬されるようになる。
蓮華王院の名称は後白河上皇の前世の蓮華坊が由来する説もある。
後白河上皇は熊野権現を厚く信仰していて、熊野御幸(くまのごこう)は34回にも及んだ。
なお、上皇とは後継者に譲位して退位した元天皇のこと。院とも呼ばれる。上皇が出家した場合は法皇と呼ぶ。熊野御幸とは和歌山県にある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に詣でること。熊野詣ともいう。
また、京都の今熊野観音寺には後白河法皇頭痛封じ霊験記が残されています。
平安時代末期のすぐれた為政者でもある後白河法皇は、熊野権現を信仰され、今熊野の地にも熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ、深く信奉されました。しかし源平争乱などの不安定な世情にあって、ご心痛の多かったことでありましょう。法皇は持病として、激しい頭痛がおありでした。そこで、頭痛封じの観音さまとして評判の高かった今熊野観音に頭痛平癒のご祈願を続けられたところ、ある日の夜法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて光明をお差しかけ下さいました。すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしまいました。爾来、法皇は今熊野観音を頭痛封じの観音としてさらに天下にお知らしめになり、益々篤く信仰されるようになりました。今熊野観音寺 霊験記
②破魔矢

三十三間堂 破魔矢(破魔弓)
三十三間堂の破魔矢(破魔弓)は招福厄除・家内安全のご利益があります。(冥加料1,000円)
一般的に神社仏閣の破魔矢には絵馬が付いていますが、三十三間堂の破魔矢は弓と矢がセットになっている珍しい授与品です。
三十三間堂の破魔矢は自分自身や空間の浄化、悪霊や邪氣を祓うことができるので自宅や会社の事務所に置くのがおすすめです。
ただし、破魔矢は年末年始の縁起物なので10月1日~2月後半頃しか置いていません。
この期間中に訪れることができない方は三十三間堂へ電話をしてみてください。破魔矢の授与期間中であれば郵送してもらうことが可能です。
【お問い合わせ先】三十三間堂 075-561-0467
【破魔矢の授与期間】10月1日~2月後半まで
③無畏

三十三間堂の記念誌「無畏」
無畏(むい)は2018年(平成30年)に1,001体の千体千手観音立像が国宝に指定されたことを記念して発刊された冊子です。(冥加料1,500円)
三十三間堂に安置されている千手観音坐像・千体千手観音立像・二十八部衆像・風神雷神像のお姿、配置図、造寺造仏の歴史などが記されています。
1,001体の千体千手観音立像のお顔、尊名もすべて掲載されている大変貴重な冊子です。ぜひ手にすることをおすすめします。
三十三間堂ならではの魅力
三十三間堂ならではの魅力は13個あります。
①安置されている仏像は全て国宝
三十三間堂に安置されている仏像は全て国宝に指定されています。
仏像 | 国宝指定の名称 | 国宝指定日 | 像高 | 造像法 |
---|---|---|---|---|
千手観音坐像(本尊) | 木造千手観音坐像 附 木造天蓋 | 1951年(昭和26年)6月9日 | 334.8cm(台座や光背を含めると7mを超える) | 寄木造、漆箔、玉眼 |
千体千手観音立像(1,001体) | 木造千手観音立像1,001躯 | 2018年(平成30年)10月31日 | 165~169cm | 寄木造または割矧ぎ造、漆箔 |
二十八部衆像(28体) | 木造二十八部衆立像28躯 | 1955年(昭和30年)2月2日 | 最小は神母女の153.6cm、最大は大梵天王の169.7cm | 寄木造、彩色、玉眼 |
風神雷神像(2体) | 木造木造風神雷神像2躯 | 1955年(昭和30年)2月2日 | 風神111.5cm、雷神100.0cm | 寄木造、彩色、玉眼 |
*一般的に仏像を数える時は体で表すが、昔は躯(く)と表し、彫刻などの文化財の時は躯で表す。
*国宝指定日は「文化庁 国指定文化財等データベース」を参考
*像高は「新版 古寺巡礼京都18 妙法院・三十三間堂」及びウィキペディアを参考

新版 古寺巡礼京都18 妙法院・三十三間堂
②千手観音坐像

三十三間堂のポスター
本尊の千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)は運慶(うんけい)の息子である湛慶(たんけい)の作品です。
湛慶(たんけい)とは
鎌倉時代の慶派に属する仏師。父は平安時代末期以降に活躍した大仏師の運慶。湛慶は父運慶と共に奈良の東大寺を中心に活動していた。
同じ流派の弟子を率いて1254年(建長6年)に完成させました。
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千手観音坐像は84才(1256年/建長8年)で亡くなった湛慶の代表作。1251年(建長3年)に造り始め、1254年(建長6年)に完成。台座心棒の墨書にある湛慶の名の後に「生年八十二」と書かれていたことから82才の年に完成したことが判明する。
なお、この銘記は1651年(慶安4年)の修理時に書かれたものになる。像内の仕切り板に朱書された造像当初の銘記を写したものと考えられているが、造像当初の銘記は剥がれ落ちている部分が多く全文は不明となっている。
千手観音坐像は42手の姿形が特徴的です。持物(じもつ)を使い、全ての人々を救う観音様なので千手観音と言われています。
持物(じもつ)とは
仏像が手に持っている物のこと。
千手観音の持物と意味は「久保田悠羅さんとF.E.A.R.著 密教曼荼羅」の解説がわかりやすいので、そちらをご紹介させて頂きます。

密教曼荼羅
数 | 持物 | 意味 |
---|---|---|
1 | 錫杖(しゃくじょう) | 発菩是心(よい願いを起こす) |
2 | 宝鏡(ほうきょう) | 智慧開眼(智慧を開く) |
3 | 月輪(がちりん) | 熱毒消除(毒や熱病を除く) |
4 | 経箱(きょうばこ) | 後生安隠(冥福を得る) |
5 | 宝珠(ほうじゅ) | 富貴栄達(財宝を得る) |
6 | 化仏(けぶつ) | 皆徳授記(悟開の証明を得る) |
7 | 独鈷(どくこ) | 怨敵退散(怨敵を退散する) |
8 | 経巻(きょうかん) | 学業成就(学問を得る) |
9 | 三鈷(さんこ) | 降伏大魔(悪魔を降ろす) |
10 | 鉄斧(てつふ) | 諸難削除(災難を避ける) |
11 | 宝印(ほういん) | 得巧弁才(話術が巧みになる) |
12 | 青開蓮(しょうかいれん) | 浄土住生(浄土に生まれる) |
13 | 宝箭(ほうき) | 相逢善友(善い友に逢う) |
14 | 蒲桃(ぶどう) | 五穀豊穣(自然の恵みを得る) |
15 | 楊柳(ようりゅう) | 病気平穏(病気を除く) |
16 | 胡瓶(こへい) | 二者和合(和合を得る) |
17 | 紫未開蓮(しみかいれん) | 得見諸仏(仏に出会う) |
18 | 数珠(じゅず) | 現来諸仏(仏に守られる) |
19 | 施無畏(せむい) | 得離怖畏(不安を離れる) |
20 | 宝鉢(ほうはつ) | 腹病平穏(腹痛を癒す) |
21 | 戟鉾(げきほこ) | 逆賊退散(逆賊に勝つ) |
22 | 日輪(にちりん) | 辟除眼闇(眼病を除く) |
23 | 宮殿(きゅうでん) | 仏在宮殿(仏と共にある) |
24 | 化仏(けぶつ) | 不離仏辺(仏に親しむ) |
25 | 輪宝(りんぽう) | 得不退転(退歩することがない) |
26 | 五色雲(ごしきうん) | 延命長寿(長寿を得る) |
27 | 五鈷鈴(ごこれい) | 得美音声(美しい音色を得る) |
28 | 宝螺(ほうら) | 守護善髪(善神が集まる) |
29 | 鉄鉤(てっこう) | 龍神降伏(悪竜を降ろす) |
30 | 紅開蓮(ぐかいれん) | 生天受福(天に生まれる) |
31 | 金環(きんかん) | 獲得召使(支援者を得る) |
32 | 宝剣(ほうけん) | 邪悪退散(悪霊を除く) |
33 | 払子(ほっす) | 諸災削除(障害を除く) |
34 | 髑髏(どくろ) | 除諸鬼難(悪魔を除く) |
35 | 宝弓(ほうきゅう) | 心願成就(名誉を増す) |
36 | 羂索(けんさく) | 得安隠楽(安隠を得る) |
37 | 白未開蓮(びゃくみかいれん) | 功徳充満(功徳を得る) |
38 | 水瓶(すいびょう) | 値遇善王(善政に遇う) |
39 | 盾(たて) | 除諸獣難(獣の難を避ける) |
40 | 合掌(がっしょう) | 衆人愛敬(人に敬われる) |
出典 密教曼荼羅 如来・菩薩・明王・天(著 久保田悠羅とF.E.A.R.)
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右手には1〜19の持物、左手には21〜39の持物、20と40は中央の方鉢と合掌を表すのが一般的。まれに左手右手の持物を逆に表す場合もある。
千手観音坐像の光背(こうはい)は衆生を救済するために33種の姿に変えて現れる「観音三十三応現身」を表したもので、三十三間堂の名称の由来の1つともされています。
光背(こうはい)とは
仏身から発せられる光明を視覚的に表現したもの。仏像の背中にある装飾。後光。
観音経で説かれている三十三応現身の詳細はこちらです。
数 | 観音三十三応現身 | 詳細 |
---|---|---|
1 | 仏身(ぶっしん) | 如来 |
2 | 辟支仏身(びゃくしぶっしん) | 一人で悟りを得た者 |
3 | 声聞身(しょうもんしん) | 仏の教えを聞いて悟りを得た者 |
4 | 梵王身(ぼんおうしん) | 梵天 |
5 | 帝釈身(たいしゃくしん) | 帝釈天 |
6 | 自在天身(じざいてんしん) | 自在天 |
7 | 大自在天身(だいじざいてんしん) | 大自在天 |
8 | 天大将軍身(てんたいしょうぐんしん) | 大将軍神 |
9 | 毘沙門身(びしゃもんしん) | 毘沙門天 |
10 | 小王身(しょうおうしん) | 王 |
11 | 長者身(ちょうじゃしん) | 金持ち |
12 | 居士身(こじんしん) | 在家の信仰熱心な信者 |
13 | 宰官身(さいかんしん) | 役人 |
14 | 婆羅門身(ばらもんしん) | 司祭階級 |
15 | 比丘身(びくしん) | 僧侶 |
16 | 比丘尼身(びくにしん) | 尼僧 |
17 | 優婆塞身(うばそくしん) | 男性の信者 |
18 | 優婆夷身(うばいしん) | 女性の信者 |
19 | 長者婦女身(ちょうじゃぶにょしん) | 女性の金持ち |
20 | 居士婦女身(こじぶにょしん) | 在家の信仰熱心な女性の信者 |
21 | 宰官婦女身(さいかんぶにょしん) | 女性の役人 |
22 | 婆羅門婦女身(ばらもんぶにょしん) | 女性の司祭階級 |
23 | 童男身(どうなんしん) | 男性の子供 |
24 | 童女身(どうじょしん) | 女性の子供 |
25 | 天身(てんしん) | 八部衆の天 |
26 | 龍身(りゅうしん) | 八部衆の龍王 |
27 | 夜叉身(やしゃしん) | 八部衆の夜叉 |
28 | 乾闥婆身(けんだつばしん) | 八部衆の乾闥婆 |
29 | 阿修羅身(あしゅらしん) | 八部衆の阿修羅 |
30 | 迦楼羅身(かるらしん) | 八部衆の迦楼羅 |
31 | 緊那羅身(きんならしん) | 八部衆の緊那羅 |
32 | 摩睺羅迦身(まごらがしん) | 八部衆の摩睺羅迦 |
33 | 執金剛身(しゅこんごうしん) | 金剛力士 |
参考 密教曼荼羅 如来・菩薩・明王・天(著 久保田悠羅とF.E.A.R.)
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観音経は法華経の中の経典。観音の名称の由来や功徳などを説いている。観音三十三応現身のことを普門示現(ふもんじげん)とも言う。
密教の経典「摂無礙経(せつむげきょう)」で説かれている観音三十三応現身は観音経とほぼ同じですが、次の部分が異なります。
数 | 摂無礙経の名称 | 観音経の名称 |
---|---|---|
19 | 人身(じんしん) | 長者婦女身(ちょうじゃぶにょしん) |
20 | 非人身(ひじんしん) | 居士婦女身(こじぶにょしん) |
21 | 婦女身(ぶにょしん) | 宰官婦女身(さいかんぶにょしん) |
18 | 童目天女身(どうもくてんにょしん) | 優婆夷身(うばいしん) |
千手観音坐像はどんな人々にも救済の目が届くことを表す11面の顔も特徴的です。その姿から十一面千手千眼観自在菩薩(じゅういちめんせんじゅせんげんかんじざいぼさつ)、十一面四十二臂(ひ)像とも呼ばれます。
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本来仏様の手を数える時は本ではなく臂(ひ)。例えば顔が3面で手が6本ある場合は三面六臂という。
ちなみに、お堂創建時の本尊は1249年(建長元年)京都で起きた火災(建長の大火)で頭と左手以外は焼失したと伝わっています。
現在の仏像は復興像になり、創建時の2つの部位は使われていませんが、仏頭は火災時に運び出されたものを模範して新しく造られています。
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千手観音像の姿形や持物は唐の僧侶伽梵達摩(がぼんだつま/かぼんだるま)が訳した「千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつこうだいえんまんむげだいひしんだらにきょう)」、唐の僧侶・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が訳した「千手観音造次第法儀軌(せんじゅかんのんぞうしだいほうぎき)」という2つの経典を基にして造られた。千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経は千手千眼陀羅尼経(せんじゅせんげんだらにきょう)とも呼ばれる。
千手観音造次第法儀軌の経典は弘法大師空海が中国から日本にもたらしたものだが、日本の千手観音信仰は古くからあり、空海が密教を伝える前から千手観音像は造像されていた。
日本で現存する最古の千手観音像は725年(神亀2年)聖武天皇の勅願によって造られた大阪葛井寺の仏像とされる。また、天平年間頃(729年~749年)京都東大寺に建てられた千手堂にあった講堂にも極めて古い千手観音像が安置されていたとも伝わる。(現在講堂はない)
③千体千手観音像

三十三間堂のポスター
千体千手観音立像(せんたいせんじゅかんのんりつぞう)は奈良仏師の慶派(けいは)をはじめ、京都仏師の院派(いんぱ)、円派(えんぱ)の3流派の仏師約150人が国家規模で造作をした仏像です。
顔の表情や衣の模様、錫杖、首の飾りなどは各仏師の個性が取り入れられ、千体千手観音立像は一つとして同じ顔の仏像は存在しないと言われています。
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千体千手観音立像は仏像の数の多さから「仏像の森」とも言われ、中には自分と同じ顔の仏像がいる、もしくは亡くなった人や知人に似た仏像がいると伝わる。
千体千手観音立像は体内が空洞の寄木内刳(よせぎうちくり)という造像法で造られ、像内には数十枚の摺仏(すりぼとけ)が納められています。
各像に数十枚の摺仏を加えることで造仏一万体を具現し、広大無辺な救済力を象徴させています。
摺仏(すりぼとけ)とは
仏の形像を木版に彫り、墨や朱を使って紙に押し当てて印刷したもの。仏の功徳を得るためのもので仏像の中に納められることが多い。まれに木版画そのものを納める場合もある。中国では唐の時代から摺仏が盛んに行われ、日本には平安時代に伝わった。小さな木版画で彫られた複数の仏を1枚の用紙にまとめて捺印するものを印仏(いんぶつ)という。
2018年以前は歴史的造形物を現存するため、千体千手観音立像の数体が京都・奈良・東京の美術館に貸し出されていましたが、2017年12月に1,001体の修理が完了し、2018年に国宝に指定されたことを機に26年ぶりに全ての千体千手観音立像が三十三間堂に揃いました。
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前回1,001体が揃ったのは1992年(平成4年)後白河上皇800回目の忌法要の時。大きな出来事がないと滅多に揃うことがなかったが、住職の話によると「これからは美術館で保管する予定はない」とのこと。
千体千手観音立像は本尊の左右に500体ずつ(計1,000体)東向きに安置されていて、全ての顔が拝見できるようになっています。
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西向きの1,001体目は参拝順路に従って本尊裏に回った時に拝見できる。
お堂入口の一番右端が第十群(901〜1,000号像)になり、参拝順路に従って進むに連れて第九群(801〜900号像)、第八群(701〜800号像)…お堂南側の一番左端が第一群(1〜100号像)です。

三十三間堂 仏像安置図
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
第一群の最上段が1号像で最下段が10号像です。
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
1号像を正面とした右下が2号像で、その左下が3号像、その右下が4号像と上から右下・左下・右下・左下の順番で前後10列の階段状で並んでいます。
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
戦前まではお堂南側(第一群の方)が入口で第一群〜第十群と順番通りの拝み方でしたが、現在は入口が北側なので第十群〜第一群に向かって拝む順番となっています。
1249年の火災では1,000体のうち156体が取り出されたと一代要記(いちだいようき)に記録されていますが、お堂創建時の作品と判定されたのは124体です。
一代要記(いちだいようき)とは
年代記の1つ。各天皇ごとに在位中の出来事を記録した全4冊(春夏秋冬)から成る歴史書。第91代後宇多天皇(ごうだてんのう/在位1274~1287年)の時に成立し、鎌倉時代末期から南北朝時代初期まで書き継がれた。春冊が神代~醍醐天皇、夏冊が朱雀天皇~高倉天皇、秋冊が安徳天皇~後嵯峨天皇、冬冊が後深草天皇~花園天皇となっているが、中間や尾部が欠けているので最後は不明。
残りの876体は1598年(慶長3年)から15年かけて再興された再興像で、1,001体目は室町時代に造られました。
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1937年(昭和12年)から1,001体の修理が開始され、2017年(平成29年)12月に全ての修理が完了。その際、約500体の銘記から作者名が確認され、鎌倉時代の再興像であることが判明した。
修理開始時期から数年間は責任者であった新納忠之介(にいろちゅうのすけ)を中心に行われた。新納忠之介は多くの文化財の修理に携わった日本の彫刻家。
拝見しやすいお堂創建時の仏像は「160号・280号・300号・440号・450号・570号・670号・800号・890号」の9体です。

拝見しやすいお堂創建時の仏像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
もっと詳しい配置はこちらです。
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
大仏師湛慶と仏師行快が造仏した再興像(1598年以降の仏像)は数多くありますが、最も拝見しやすいのは次の10体です。
湛慶作 | 10号・20号・30号・40号・520号・530号・540号・550号・560号 |
行快作 | 270号 |
行快(ぎょうかい)とは
慶派の仏師。大仏師快慶の弟子で事実上の後継者。(実際の後継者は湛慶)

湛慶と行快が造仏した再興像の位置

湛慶と行快が造仏した再興像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
④二十八部衆像
三十三間堂の二十八部衆像は「1249年の火災(建長の大火)の時、無事に救い出された」と一代要記に記録されていますが、技法や様式から見て鎌倉時代の復興像とみなされています。
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三十三間堂は建長の大火で焼失。1266年(文永3年)に三十三間堂、仏像が再建された。
平成の再編では二十八部衆像のうち13体が改名され、配置順も変わっています。
こちらが三十三間堂の二十八部衆像一覧です。改名された二十八部衆像は赤文字にしています。
番号 | 尊名(現) | 尊名(旧) |
1 | 那羅延堅固 (ならえんけんご) |
那羅延堅固 (ならえんけんご) |
2 | 難陀龍王 (なんだりゅうおう) |
難陀龍王 (なんだりゅうおう) |
3 | 摩睺羅 (まごら) |
摩睺羅迦王 (まごらかおう) |
4 | 緊那羅 (きんなら) |
神母天 (じんもてん) |
5 | 迦楼羅 (かるら) |
迦楼羅王 (かるらおう) |
6 | 乾闥婆 (けんだつば) |
緊那羅王 (きんならおう) |
7 | 毘舎闍 (びしゃじゃ) |
乾闥婆王 (けんだつばおう) |
8 | 散支大将 (さんしたいしょう) |
満仙王 (まんせんおう) |
9 | 満善車鉢 (まんぜんしゃはつ) |
毘楼勒叉天 (びるろくしゃてん) |
10 | 摩尼跋陀羅 (まにばだら) |
金大王 (こんだいおう) |
11 | 毘沙門天 (びしゃもんてん) |
毘沙門天 (びしゃもんてん) |
12 | 提頭頼吒王 (だいずらたおう) |
五部浄居天 (ごぶじょうごてん) |
13 | 婆藪仙 (ばすせん) |
婆藪仙人 (ばすせんにん) |
14 | 大弁功徳天 (だいべんくどくてん) |
大弁功徳天 (だいべんくどくてん) |
15 | 帝釈天王 (たいしゃくてんおう) |
帝釈天 (たいしゃくてん) |
16 | 大梵天王 (だいぼんてんおう) |
大梵天王 (だいぼんてんおう) |
17 | 毘楼勒叉 (びるろくしゃ) |
東方天 (とうほうてん) |
18 | 毘楼博叉 (びるばくしゃ) |
毘楼博叉 (びるばくしゃ) |
19 | 薩遮摩和羅 (さしゃまわら) |
摩醯首羅王 (まけいしゅらおう) |
20 | 五部浄居 (ごぶじょうご) |
金色孔雀王 (こんじきくじゃくおう) |
21 | 金色孔雀王 (こんじきくじゃくおう) |
散脂大将 (さんしたいしょう) |
22 | 神母女 (じんもにょ) |
摩和羅女 (まわらにょ) |
23 | 金毘羅 (こんぴら) |
金毘羅王 (こんぴらおう) |
24 | 畢婆伽羅 (ひばから) |
畢婆伽羅王 (ひばからおう) |
25 | 阿修羅 (あしゅら) |
阿修羅王 (あしゅらおう) |
26 | 伊鉢羅 (いはつら) |
満善車王 (まんぜんしゃおう) |
27 | 娑伽羅龍王 (さがらりゅうおう) |
沙羯羅王 (しゃがらおう) |
28 | 蜜迹金剛士 (みしゃこんごうし) |
蜜迹金剛 (みしゃこんごう) |
*現在の尊名は「尊名(現)」、以前の尊名は「尊名(旧)」
尊名が改名された理由は、長い年月の間に起きた倒壊や火災、修理などの時代要因によって、本来の尊名とは異なる尊名になっている像があったためです。
そこで三十三間堂を管理する妙法院は、
- 二十八部衆の修理でわかった各像の彩色痕跡や技法
- 1600年~1605年に豊臣秀頼の命で大仏師康正が行った修理時の銘文
- 三十三間堂を模して制作された二十八部衆像の尊名
- 細見美術財団の千手観音二十八部衆像(鎌倉時代)
などを踏まえて尊名を改訂しました。
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二十八部集の原型となった護法神群は西インド出身の僧 伽梵達摩(かぼんだるま)訳の千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経のみに偈文の形で説かれている。一句七字に揃えるため、例えば烏枢沙摩明王は「烏芻」など尊名を省略して音写。サンスクリットの原本がないので確認ができない。
善無畏三蔵訳の千手観音造次第法儀軌には二十八部衆像の尊名と図像があるが三十三間堂と一致しない。
平安時代の学僧で清水寺別当(長官)を務めた定深(1046年~1119年)は、千手経二十八部衆釈で千手経の勅偈に説かれる護法神の数が二十八部ではなく四十九尊であるとしている。
二十八部衆の解体修理の際には1600年~1605年に豊臣秀頼の命で大仏師康正が行った修理時の銘文が見つかり、従来の尊名とは異なる尊名が記されているものがあった。二十八部衆の多くは三十三間堂の像を模して制作されたが尊名が違うケースがあり、それまでは誤って伝わったとされていたが、修理時の銘文が見つかったことで本来の尊名を保存している可能性が出た。
伊東史朗氏は滋賀県常楽寺の二十八部衆像(風神雷神合わせて30体)で、画像で尊名が記されている禅林寺本を比較し、正しい尊名比定を試みた。ただ、禅林寺本は南北朝時代(1336年~1392年)の成立で、三十三間堂の創建(1164年)から約200年、文永の復興(1266年)から約100年後の画像になるため、すべての問題を解決することはできなかった。

千手観音と二十八部衆の謎

八部衆・二十八部衆 (日本の美術 No.379)
配置順は従来1934年の修理以降の配置でしたが、平成の再編により創建当時の姿が再現されています。
現在の二十八部衆像は中尊千手観音坐像の四方位を守護するように婆籔仙(ばすせん)、大弁功徳天(だいべんくどくてん)、帝釈天王(たいしゃくてんおう)、大梵天王(だいぼんてんおう)が置かれ、残りの24体は千体千手観音像を護るように最前列に置かれています。

二十八部衆像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
配置が大きく換わったのは中尊の四方位に安置されている次の尊像です。
- 婆籔仙(ばすせん)
- 大弁功徳天(だいべんくどくてん)
- 帝釈天王(たいしゃくてんおう)
- 大梵天王(だいぼんてんおう)

中尊の四方位に安置されている尊像
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
それ以前は次の四体の尊像が中尊の四方に安置されていました。二十八部衆像の四天王式を基にしていたと考えられます。
- 毘沙門天(びしゃもんてん)
- 東方天(とうほうてん/現 毘楼勒叉)
- 五部上居天(ごぶじょうごてん/現 提頭頼吒王)
- 毘楼博叉天(びるばくしゃてん/現 毘楼博叉)
四天王は一般に多聞天(たもんてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、持国天(じこくてん)ですが、三十三間堂では次の別称で安置されています。
三十三間堂 | 四天王 |
毘沙門天(びしゃもんてん) | 多聞天 |
毘楼勒叉(びるろくしゃ) | 増長天 |
毘楼博叉(びるばくしゃ) | 広目天 |
提頭頼吒王(だいずらたおう) | 持国天 |
現在の四天王の配置はこちらです。

四天王の位置
⑤風神雷神像
三十三間堂の風神雷神像は「日本最古の風神雷神の彫像」です。
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風神雷神像は鎌倉復興期の作品。作者は不明だが大仏師湛慶が深く関わっているとされる。
風神雷神は中国由来ですが、風神雷神像の像形は古代信仰や伝説的空想によって日本化されています。
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三十三間堂の風神像は風袋を持ち、右膝を突き、左膝を立てる姿。手指は4本、足指は2本。雷神像は太鼓と桴(ばち)を持ち、左膝を突き、右膝を立てる姿。手指は3本、足指は2本。
こちらが中国莫高窟(ばっこうくつ)第249窟の壁画に描かれている風神雷神です。
左上に太鼓と桴(ばち)を持つ雷神が、右上に衣のようなものをまとった風神が、真ん中には阿修羅が描かれています。

敦煌莫高窟第249窟壁画
莫高窟(ばっこうくつ)とは
中国甘粛省敦煌市近郊の仏教遺跡で千仏洞とも呼ばれる。作り始めたのは355年あるいは366年とされ、1000年に渡って彫り続けられた。南北約1,600mに渡って石窟が並び、492の石窟に総面積45,000平方メートルある「仏教の教えを描いた壁画」や「2415尊の色鮮やかな彩色塑像」がある。仏教美術として世界最大規模。1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。
三十三間堂ではお堂入口(北側)付近に風神像、その反対側に雷神像が安置されています。

風神雷神像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
1934年(昭和9年)の修理後は今と逆の配置(北に雷神・南に風神)に置かれていましたが、2018年の千体千手観音立像の国宝指定に合わせ、お堂創建時と同じ配置に戻っています。
ちなみに、俵屋宗達の風神雷神図屏風は三十三間堂の風神雷神像がモデルになっていると言われています。

国宝 風神雷神図 俵屋宗達
出典 建仁寺
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風神雷神図屏風は江戸時代初期の大画家 俵屋宗達(たわらやそうたつ)が1630年(寛永7年)前後に三十三間堂の風神雷神像をモデルにして書いた作品。
風神雷神図屏風は宗達の代表作だが、琳派(りんぱ)を発展させた絵師 尾形光琳(おがたこうりん)をはじめ、多くの画家が宗達の作風を受け継いで作られた模作や模写が数多くある。琳派(りんぱ)とは桃山時代後期~近代まで活躍した造形芸術の流派。
⑥楊枝のお加持(楊枝浄水供)
楊枝のお加持(やなぎのおかじ)は平安時代から続く三十三間堂で最も重要な法要です。
正式には楊枝浄水供(ようじじょうすいく)と呼ばれるインド伝来の修法で、後白河法皇の時代の1156年(保元元年)に修されたのが初めとされています。
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古代インドにあった毘舎離(びしゃり)という都市で伝染病に困った人々が観音様に祈り、除病の呪文を教えてもらったのが起源。奇病が治ったお礼として観音様に浄水と楊枝を奉ったことで楊枝は「除病の霊木」として信仰された。
楊枝のお加持は一週間にわたる楊枝浄水供の結願日法要です。
「本尊の前で一週間祈願した法水」を妙法院門主をはじめ、高僧が聖樹とされる楊枝(やなぎ)で参拝者の頭に注ぎ、功徳を分け与えて諸病を除くもので、特に頭痛平癒のご利益があります。
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観音経読誦の後、人々が消伏毒害守護陀羅尼を唱える中、妙法院門主が千手観音念誦法を修し、楊枝で浄水を参拝者の頭に注ぎ結縁灌頂する。参考 新版 古寺巡礼京都18 妙法院・三十三間堂
楊枝のお加持は毎年1月15日に近い日曜日に行われます。午前9時から境内が無料開放されるのでこの日の拝観料は無料です。
なお、特別祈願を受けると福柳とお守りが入った福袋が頂けます。(冥加料3,000円)
楊枝(ようじ)と仏教
楊枝(ようじ)は釈迦(ブッダ)が弟子に歯の手入れを教えたのが由来。薬木である菩提樹の小枝を噛み、樹液を吸って、先端をブラシ状にしたもので歯と舌を掃除する方法を教えた。この歯ブラシは「ダンタカシュウタ」と言い、ダンタが歯、カシュウタが木を意味する。
中国に伝わった際、インドで歯木によく使われるニームの木がなかったので楊(やなぎ)が使われるようになり、楊枝と漢訳されるようになる。それが日本にも伝わった。歯木に使われる薬木は邪氣を祓うと考えられ、楊枝は僧侶が身に備えるべき十八物の1つとされる。
柳(楊枝)の樹皮にはサリチル酸が含まれていて、鎮痛や解熱の効果があることが紀元前から知られていた。この効果は現代の医学的でも実証されている。
⑦通し矢

三十三間堂 北門

江戸時代の三十三間堂(歌川豊春画)
出典 ウィキペディア
三十三間堂は軒下で矢を射る「通し矢」の舞台になったお寺です。

「通し矢」射場の案内
「通し矢」射場
江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛びくる矢からお堂を守るために徳川第三代将軍家光が付加したものです。西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射つづけるという「大矢数(おおやかず)」は身命を賭けた凄絶(そうぜつ)な競技で、江戸時代を通じて、約八百人がこれに挑み、時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ百万本に達すると伝えられます。毎年正月(15日に近い日曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約二千人が参加し終日、賑わいをみます。
西縁側の柱や壁、軒には矢による損傷を防ぐための鉄板が残っていますが、これは徳川家光の命で行われた1649年の小規模修理の際に張られたものになります。

損傷を防ぐための鉄板

損傷を防ぐための鉄板

損傷を防ぐための鉄板
通し矢は当初、個人の腕を試し、神仏に弓術上達の祈願をするものでしたが、後に藩や弓術家の名誉をかけた競技に発展し、その成績が出世の手段になっていました。
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通し矢は矢を軒下に通すことが由来。
通し矢の始まりは諸説ある。平安時代末期(1156年頃)に蕪坂源太(かぶらざかげんた)という腕利きの猟師が三十三間堂の軒下を実戦用の矢で射ぬいたのが始まりとされる説。
室町時代(1338年~1573年)の洛中洛外図(らくちゅうらくがいず/京都の景観や風俗を描いた屏風絵)にお堂で弓を射る者が描かれていることから室町時代が起源する説などがある。記録として残っているのは1606年の浅岡平兵衛の記録が最初。
通し矢には様々な種目がありますが、最も注目を集めたのは1日中矢を射続け、矢を射った本数と的に当たった本数で競う大矢数(おおやかず)です。
三十三間堂西の廊下の端から的までは120m離れています。軒下に当てないよう、座って力強く弓を引く姿は人々を魅了していました。
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通し矢は天正年間(1573年〜1592年)頃から大流行し、過熱しすぎたために1595年(文禄4年)豊臣政権2代目関白である豊臣秀次が「三十三間堂において弓を射る事、かたく禁ずる」という禁令を出している。
三十三間堂の他には1642年(寛永19年)に創建された江戸浅草の江戸三十三間堂でも大矢数が流行した。東大寺大仏殿回廊でも通し矢が行われていたと伝わる。
大矢数の記録者には「天下惣一(てんかそういつ)」の称号が与えられていて、歴代記録が載る矢数帳の初めには1606年(慶長11年)浅岡平兵衛(あさおかへいべい)の記録「矢を射った数100本、的に当たった数51本」が載っています。
これまでの最高記録は当時18歳だった紀州藩士の和佐大八郎(別名 和佐範遠/わさのりとお)が1686年(貞享3年)に出した「矢を射った数13,053本、的に当たった数8,133本(成功率62.3%)」です。(1分間に9本発射している計算)
三十三間堂には天下惣一の称号を得た名前と記録の入った額が掲げられていましたが、記録が更新されるたびに前者の額は撤去する習わしがありました。
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当時の弓術は馬上から放つ騎射(きしゃ/うまゆみ)、徒歩で弓を射る歩射(ぶしゃ/かちゆみ)、通し矢競技の射術である堂射(どうしゃ)の3つに分類され、通し矢用に作られた用具や技術は弓道に影響を与えた。
矢の本数を決めて的中率を競う百射(ひゃくい)や千射(せんい)などは江戸時代末期まで続きましたが、大矢数は時代と共に挑戦者が減少し、江戸時代中期頃には行われなくなりました。
⑧大的大会
大的大会(おおまとたいかい)は通し矢に由来する弓の伝統競技で、楊枝のお加持と同日に行われます。全国約1,500~2,000人の新成人が振袖や袴を着て矢を射ぬく三十三間堂の正月の風物詩となっています。
新成人の男子・女子だけでなく、称号者(錬士・教士・範士)も参加するので伝統的な所作も楽しめます。
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新成人は「全日本弓道連盟に登録をしている初段以上」が参加できる。例年新成人は男女合わせて約2,000人、称号者は約100人参加。新成人による通し矢は1951年(昭和26年)から始まった。
大的大会ルールは次の通りです。
大会 | 対象 | 距離 | 的の大きさ | その他 |
予選 | 新成人 | 60m | 100cm | 1つの的に3人が矢を射る。的は計4つ設置、12人が横に並んで弓を引く。1人2本の矢を約2分間で放ち、2本とも的にあてると決勝に進む。 |
称号者 | 79cm | |||
決勝 | 新成人 | 79cm | 的を外したら脱落し、最後まで残った人が優勝。射詰競射(いづめきょうしゃ)のルール。 | |
称号者 | 50cm |
2020年は次のスケジュールで行われました。
07:45 開会式
08:00 矢渡し
08:30 新成人男子
10:50 新成人女子
13:50 称号者
15:00 決勝
⑨春桃会
春桃会(しゅんとうえ)は毎年3月3日に行われる法会(ほうえ)です。本尊から繋がれた善縁の綱に触れて厄災を祓う「結縁綱(けちえんづな)参拝」ができます。
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春桃会は三十三間堂の名前にちなみ、毎年3月3日の桃の節句に行われることから「ももの法会(ほうえ)」とも呼ばれる。この日の拝観料は無料。
法会(ほうえ)とは仏法を説くために僧侶や仏教の信仰者が集まり仏事を行うこと。
この日は東風壇(とうふうだん)という1.5mほどの特設の高壇から千体千手観音立像を拝見することができます。普段見ることができない高い位置から拝む姿は圧巻です。
法会で用いられる桃は鬼怖木(きふぼく)と言い、悪災を除く仙果・聖樹です。昔から「桃の枝を軒先に飾ると厄除けになる」「桃の花をお酒に浮かべて飲めば無病息災を得られる」といわれています。
当日は無病息災のご利益がある「女性限定の桃のお守り」が人気です。お守りの中には観音様が入っているそうです。千体千手観音立像の尊名表も付いてきます。(冥加料500円)
ピラミッド型になっている桃鈴入りの「花咲きおみくじ」も人気があります。(冥加料500円)
⑩霊泉|夜泣き泉

霊泉|夜泣き泉
三十三間堂の手水舎「夜泣き泉(よなきせん)」は1165年(長寛3年)6月7日に僧侶の夢のお告げによって発見された霊泉です。
現在は「飲めません」の案内があるので飲用できませんが、この霊水はいくら飲んでもお腹が痛まないと伝わり、水の湧き出る音がすすり泣きに似ていることから夜泣き泉と呼ばれるようになりました。
古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない極楽井でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」と記され、当時より大切に扱われていたことがわかります。
古今著聞集(ここんちょもんじゅう)とは
鎌倉時代に編纂された20巻30篇726話からなる世俗説話集。1254年(建長6年)に成立。日本三大説話集の1つ。
夜泣き泉には夜泣き封じのお地蔵様が祀られていて、お地蔵様の前掛けを持ち帰り、子供の枕元に敷けば夜泣きが治ると伝わっています。

夜泣き泉のお地蔵様

夜泣き泉のお地蔵様
今は前掛けを持ち帰ることはできませんが、三十三間堂で「夜泣き封じ前掛け祈願(冥加料2,000円)」ができます。

夜泣き泉の案内
夜泣泉
お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない”極楽井”でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」と記されています。夜のしじまに水の湧き出す音が人の”すすり泣き”に似ることから”夜泣き”泉と言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られて、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵さまの「前掛け」を持ちかえり子供の枕に敷けば”夜泣き”が治るとされ、今もそのご利益を求める参拝が続いています。
⑪国宝 蓮華王院本堂|三十三間堂

蓮華王院本堂|三十三間堂
三十三間堂は国宝です。日本一長い木造建築物として知られています。(地上16m、奥行き22m、南北120m)

蓮華王院本堂|三十三間堂
1164年(長寛2年)に建てられ、1249年の火災(建長の大火)で焼失しましたが、1266年(文永3年)に再建され、その後750年以上の間、一度も焼失や倒壊することなく現存している建物です。
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再建後は南北朝時代の騒乱、室町時代の応仁の乱、幕末期の禁門の変、第二次世界大戦などがあったがいずれも難を逃れている。
三十三間堂は和様、入母屋造り本瓦葺きで、地震に強い免震工法で建てられています。

蓮華王院本堂|三十三間堂
平安時代の京都には多くの高層建築物がありましたが、地震などの災害により短期間で倒壊したため、これに見習い耐震対策をして建てられました。
基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する〈版築・はんちく〉を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ〈二重虹梁・にじゅうこうりょう〉とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加しました。 加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む〈羽目板・はめいた〉とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。出典 蓮華王院 三十三間堂
なお、三十三間堂の名称は南北にのびるお堂内陣の柱間が33あることが由来です。

蓮華王院本堂|三十三間堂

蓮華王院本堂|三十三間堂
33は観音三十三応現身の数です。
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三十三間堂は間面記法(かいめんきほう)で三十三間四面となる。間面記法は奈良時代から南北朝時代に用いられた建築の平面や規模、形式を表現する方法のこと。
⑫太閤塀

太閤塀
三十三間堂の南側にある太閤塀(たいこうべい)と呼ばれる築地塀(ついじべい)は、太閤豊臣秀吉が権力を示すために建てた大仏殿方広寺(ほうこうじ)と共に築いた塀です。

太閤塀
長さ92m、高さ5.3mあり、国の重要文化財に指定されています。
築地塀(ついじべい)とは
泥土をつき固めて作った場所を区画するための塀。

南大門と太閤塀の案内
南大門と太閤塀
南大門は三間一戸(さんけんいっこ)の八脚門で、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものと伝えます。それに続く築地塀は高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、瓦に太閤桐の文様を用いることから「太閤塀」と通称され、ともに桃山気風にあふれた遺構です。
修理時に「天正十六年…大ふつ殿瓦」と刻まれた瓦が見つかったことから、1588年(天正16年)頃の築造と推定されています。
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豊臣秀吉は奈良の大仏を凌ぐ大きさの大仏を安置する大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営。三十三間堂や後白河上皇の御陵も境内に取り込んで土塀を築いた。その遺構として太閤塀と南大門が残る。太閤塀の軒丸瓦(のきまるがわら)には豊臣家の桐紋が描かれている。南大門も重要文化財。
大仏殿は1595年(文禄4年)に完成。翌年の1596年(慶長元年)9月5日、慶長伏見地震が起きる。大仏殿は倒壊を免れたが大仏は倒壊した。

太閤塀の軒丸瓦の桐紋

南大門
太閤塀は寺格の最高位を表す5本の定規筋(じょうぎすじ)という白い水平線が引かれているのが特徴です。

太閤塀の定規筋
定規筋(じょうぎすじ)とは
皇族や摂家など御所に用いられた皇室に由来する格式を表す線。数が増えるに連れて位が高くなり5本線が最高格式を表す。皇族が出家して住職を務めた寺院の土塀に5本線を引いたのが始まりで、後に定規筋の数がお寺の格式を示すようになった。
京都でよく見かけるのは5本と4本の筋塀(すじべい)。定規筋は格式を表わすものなので、3本以下の線を誇示するようなことは基本的にない。3本以下の線は築地塀の内側で見かけることがある。
太閤塀はかつて西側にも建っていましたが現在は南側のみ残っています。
もっと詳しく
太閤塀は日本3大土塀の1つに数えられる。残り2つは兵庫西宮神社の大練塀と名古屋熱田神宮の信長塀。
⑬庭園

三十三間堂の庭園
三十三間堂の庭園では、春には大盃という珍しい品種の太閤椿、枝垂桜、陽光桜、彼岸桜、水仙、梅の花などが咲き、秋には紅葉が楽しめます。

三十三間堂の庭園
この庭園は日本の造園家である中根金作(なかねきんさく)が300近く築園した中の1つで、1961年(昭和36年)に築庭されました。
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中根金作の代表的な作品には京都城南宮の楽水苑、島根県足立美術館の庭園、アメリカのボストン美術館の天心園などがある。日本造園学会賞(1969年)、全オーストリア園芸協会金賞(1974年)、東京農業大学造園大賞(1981年)など様々な賞も受賞している。

三十三間堂の庭園

三十三間堂の庭園

三十三間堂の庭園
三十三間堂とは
三十三間堂は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある仏堂です。正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)で、天台宗妙法院の境外仏堂になります。

蓮華王院本堂の案内
蓮華王院本堂(三十三間堂)
現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛二年(一一六四)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峰)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(一二六六)に再建。その後、四度の大修理を経て七百五十年間護持されている。
長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に百十八メートルあり、お堂正面の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に千一体もの観音像(国宝)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という三十体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行われる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。京都市
蓮華王院の名称は本尊の千手観音が観音の王を意味する蓮華王と呼ばれることが由来です。
もっと詳しく
密教の胎蔵曼荼羅で観音は中台八葉院の左側(北)の蓮華部院に属す。蓮華部院は観自在院(かんじざいいん)とも呼ばれ、観自在菩薩や如意輪菩薩、不空羂索菩薩など21の菩薩で構成される。千手千眼観自在菩薩は蓮華部院の下に位置する虚空蔵院(こくぞういん)に座する。
蓮華王院本堂は洛陽三十三所観音霊場(らくようさんじゅうさんしょかんのんれいじょう)の第17番札所で、頭痛封じの寺として崇敬されることから頭痛山平癒寺(づつうさんへいゆじ)という寺号でも親しまれています。
三十三間堂の仏神
三十三間堂には千手観音や二十八部衆、風神雷神、境内には地蔵菩薩が祀られています。久勢稲荷大明神も祀られていますが御祭神の詳細は不明です。
千手観音とは
千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)は諸願成就・産生平穏を司り、何事にも自由自在に手を差し伸べて福徳を与えてくれる存在です。二十八部衆を従えています。
梵名は「サハスラブジャ・アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ(sahasrabhuja ārya avalokiteśvara)」でそれぞれ次の意味があります。
- サハスラブジャ…千の手・千の手を持つもの
- アーリヤ…聖なる
- アヴァローキテーシュヴァラ…観自在菩薩・観世音菩薩
もっと詳しく
サハスラブジャはヒンドゥー教のヴィシュヌ神、シヴァ神、女神ドゥルガーなどの神々の異名。
千手観音は六観音の一尊で六道のうち餓鬼道(がきどう)を担当しています。
六道(りくどう/ろくどう)とは
仏教の世界観。衆生(しゅじょう)が作った善悪の業(カルマ)の結果として輪廻転生する6つの世界。天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道がある。
衆生とは生命ある全てのもの。人間だけでなく植物、動物など他の生命も含まれる。
六道 | 詳細 | 六観音 |
天道 | 毘沙門天や帝釈天など天(神々)が住む世界。神通力を持ち、寿命は人間よりも非常に長く、苦しみもほとんどないが、輪廻から抜け出ていないので死は訪れる。この領域にいる神々は煩悩から解放されていないが、仏教に出会うことがないので解脱する(悟りを開く)ことができない。 | 如意輪観音 |
人間道 | 人間が住む世界。生まれること・老い・病・死など四苦八苦に悩み、苦しみも多いが地獄や餓鬼、畜生、修羅よりはずっと苦しみが少ない。唯一自力で仏に出会い、教えを聞き、解脱する(悟りを開く)ことができる世界。 | 准胝観音 (真言宗) |
不空羂索観音 (天台宗) |
||
修羅道 | 阿修羅や夜叉、鬼子母神などが住む世界。終始凄惨な争いが行われていて心の休まる暇がない。人間界で悪い行いをした者が死後にたどり着く。阿修羅道ともいう。修羅場という言葉は修羅道の有様からきている。 | 十一面観音 |
畜生道 | 人に養われる動物(畜生)の世界。牛や豚などの家畜、鳥、魚、虫など人間以外の全ての動物(植物は含まれない)を畜生という。本能で生きていて、常に生存競争が起きている。仏の教えを得ることができず、救いの少ない世界。愚かで恥知らず、他者からもらってばかりでお返ししない人が畜生に堕ちる。 | 馬頭観音 |
餓鬼道 | 餓鬼が住む世界。餓鬼は身体は痩せ細っているがお腹だけが出ている。食べ物を口にしようとすると火に変わってしまい、飢えと渇きに苦しむ。糞や膿しか食べられない餓鬼もいる。決して満たされることはない。ケチで嫉妬深いものが餓鬼に堕ちる。 | 千手観音 |
地獄道 | あらゆる苦しみを受けて罪を償う地獄の世界。大罪大悪を犯したものが死後に堕ちる。閻魔大王や牛頭天王、牛頭馬頭などの鬼神が住む。地獄はサンスクリットでNaraka(ナラカ)といい、奈落と音訳される。 | 聖観音 |

目で見る仏教小百科 村越英裕・藤堂憶斗著
四苦八苦(しくはっく)とは
仏教の言葉で人間のあらゆる苦しみのこと。次の4つの苦しみを四苦といい、
①生苦(しょうく)…生まれてくる苦
②老苦(ろうく)…老いの苦
③病苦(びょうく)…病の苦
④死苦(しく)…死の苦
それに加え、次の4つを合わせて八苦という。
⑤愛別離苦(あいべつりく)…愛する者と別れる苦
⑥怨憎会苦(おんぞうえく)…許せない者に会う苦
⑦求不得苦(ぐふとくく)…求める物が得られない苦
⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)…心身が思うがままにならない苦
生まれてくる苦しみ(生苦)はこういった「苦しみだらけの世界に生まれてくる」ことを考えるとわかりやすい。
一般的な千手観音は42手が特徴的です。
千手観音の42手のうち中央で合掌する手を除くと40手ありますが、その40手と25種の世界を掛けると「40×25=1000(千手)」となります。
この千手はどんな衆生も漏らさず救済しようとする観音様の慈悲と功徳の広大さを表しています。
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千手には千の眼があり、その眼は一切を見通す力を持っている。これが千手千眼の名の由来。
25種の世界とは二十五有(にじゅうごう)のことで、三界六道を25種に分類したものです。欲界に14有、色界に7有、無色界に4有の合計25有となっていて、下に行くほど苦しみが大きくなっています。

二十五有
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欲界は食欲・淫欲・睡眠欲など欲望にとらわれた煩悩の強い生き物が住む世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・鬱単越・閻浮提・瞿耶尼・弗婆提・四王天・三十三天・夜摩天・覩史多天・楽変化天・他化自在天の十四有。地獄(地獄の住人)・餓鬼・畜生(動物)・人(人間)・天(神々のうち欲望から離れていない神々)が住む。欲界に住む天(神々)は悟りを得て仏になっていないため、六道の輪廻から逃れていない。
色界は欲望から離れ、体が残っている天(神々)が住む清浄な物質世界。食欲や淫欲など世間的な欲望はなく、生存欲などわずかな煩悩が存在する。男女の区別がなく光明を食とする。初禅天・大梵天・第二禅天・第三禅天・第四禅天・無想天・五浄居天の七有。欲界と無色界の中間に位置。
欲望も物質的条件も超越した精神的な天(神々)が住む世界。空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・悲想非非想天の四有。三界の最上の場所にあるのが悲想非非想天。悟りの手前にある最高天になり、三界の頂点に有ることから有頂天と言う。
二十五有をより詳細に分けたものはこちらです。

二十五有
参考 目で見る仏教小百科 村越英裕・藤堂憶斗著及び仏と鬼の謎を楽しむ本 グループSKIT著

仏と鬼の謎を楽しむ本 グループSKIT著
千手の千の数字は広大無辺、無量円満を意味します。
また、1,000は10の3乗です。空間を創り出す正六面体(立方体)を表すことから、神仏と繋がり「目的・使命・祈り」を果たすことを守護する意味もあります。
ちなみに、神智学の開祖ブラヴァツキー夫人の著書The Secret Doctrineには「10は人間の知識の数であり、1,000は10の三乗」とあります。
「1,000は10の三乗でできた数字」ということが重要であることがわかります。

The Secret Doctrine (English Edition)
number ten is that of all human knowledge (Pythagorean decade); 1,000 is the number ten to the third power
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ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831年8月12日~1891年5月8日)は神智学協会の設立者の1人。「真理にまさる宗教はない」が協会のスローガン。
ヒマラヤの奥に住むマスター(マハートマー/大師)、クートフーミやモリヤから霊的な指導を受けた人物。クートフーミはかつてピタゴラス(紀元前582年~紀元前496年)に姿を変えていたことがあるとされる。
古代の叡智を守り伝えるマスターは限られた人間しか姿を見ることができない。ブラヴァツキー夫人によると、マスターにはソロモン王や釈迦、老子、孔子、フランシス・ベーコン、サン・ジェルマン伯爵などがいる。144人のマスターたちによって構成されているのが秘密結社グレート・ホワイト・ブラザーフッド。シャンバラにいる世界の王が頂点で、世界の王の祖先はヴィーナス。
神智学協会の初期の指導者チャールズ・ウェブスター・レッドビーター(日本の通称はリードビーター)によると、グレート・ホワイト・ブラザーフッドのリーダーはサナト・クマーラとされている。なお、リードビーターは世界に影響を与えたチャクラの著者。

チャクラ
42本の手以外には「頭にある11面の顔」や「観音三十三応現身を表す光背」が主な特徴です。(まれに27面の顔を持つ像もある)
次のように数多くの呼び名を持つ観音菩薩としても知られています。
- 十一面千手千眼観自在菩薩
- 千手千眼観自在菩薩
- 蓮華王
- 大悲観音(だいひかんのん)
- 千手千臂観音(せんじゅせんぴかんのん)
二十八部衆とは
二十八部衆は千手観音に仕える仏神です。仏法の守護、千手観音を信仰する者を守護する役割を持っています。
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二十八部衆の多くは戦いを象徴する武将の姿をしている。甲冑を身にまとい、鉾や剣などの法具を持っている。
二十八部衆には四天王、龍王、仁王(金剛力士)、鬼神、夜叉などが属していますが、その多くが古代インドに起源をもつ仏神です。仏教に帰依(きえ)して護法善神となりました。
帰依(きえ)とは
神仏の力を信じてその力にすがること。仏・法・僧の三宝に帰依することを三帰依といい、仏教に対して信仰を示す基本的なものとなっている。
三十三間堂の二十八部衆の詳細はこちらです。
名 | 詳細 |
那羅延堅固 (ならえんけんご) |
仁王(二王)の阿形にあたる。吽形(蜜迹金剛士)と一対で寺院の表門に安置されることが多い。寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての役割を持つ。
梵名はナーラーヤナ(Nārāyaṇa)。ヒンドゥー教のヴィシュヌの異名。漢訳仏典では那羅延天(ならえんてん)と音写。音写とは梵語の音をそのまま漢字に写す技法。仏教経典では毘紐天(びちゅうてん)。 右手は手を開いて下げ、左手は拳を作って肩より上にあげている。像高は167.9cm。 |
難陀龍王 (なんだりゅうおう) |
仏法を守護する八大竜王の第一番に数えられる龍王。密教の請雨経法(しょううきょうほう)の時に拝まれる。請雨経法は雨乞いや洪水時の止雨など、天変地異を防ぐための護国修法のこと。
梵名はナンダ(Nanda)。歓喜を意味し、別名を歓喜竜王という。難陀龍王は跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)の兄にあたる。この兄弟は六観音の一尊 准胝観音(じゅんていかんのん)の眷属の二大龍王として知られる。 甲冑姿で頭上に龍、両手で龍の体を支えている。変形した口元は魚類を表す。像高は159.1cm。 |
摩睺羅 (まごら) |
仏法を守護する護法善神の一尊。音楽の神。二十八部衆や天龍八部衆に数えられる。
梵名はマホーラガ(Mahoraga)。「偉大なる蛇」を意味する。 頭に蛇を巻きつけ、琵琶を持つ。像高は154.8cm。 |
緊那羅 (きんなら) |
仏法を守護する護法善神の一尊。インド神話に出てくる特に歌声が美しい音楽の神。天龍八部衆に数えられる。ヒンドゥー教では馬頭人身、もしくは人頭馬身の姿とされる。
梵名はキンナラ(Kiṃnara)。半神半獣の精霊。漢訳で人非人。仏教では帝釈天の眷属とされ、密教では毘沙門天の眷属とされることが多い。 小さなシンバルのような銅鈸子(どうばつし)を持つ。像高は169.4cm。 |
迦楼羅 (かるら) |
インド神話の神鳥ガルダが前身。天龍八部衆、後には二十八部衆に数えられる。鳥頭人身で鷲の爪と赤い翼を持ち、顔は白、胴体は金色に輝くことから金翅鳥(こんじちょう)とも呼ばれる。翼を広げると336万里もあり、口から金の火を吹き、龍(蛇)を食べる。仏教では衆生の煩悩を喰らう霊鳥として信仰を集める。
梵名はガルーダ(Garuḍa)。ヒンドゥー教の神ヴィシュヌ(那羅延天)の乗り物であったことから、那羅延天を背負う鳥の姿で描かれることもある。密教では梵天、大自在天、文殊菩薩の化身とされる。 三十三間堂の迦楼羅は鳥頭人身で翼を持ち、笛を吹く姿をしている。像高は163.9cm。 |
乾闥婆 (けんだつば) |
持国天の眷属。四天王に仕える八部鬼衆、仏法を守護する天龍八部衆に数えられる。
インド神話ではインドラ(帝釈天)に仕え、音楽を演奏する半神半獣の神。太陽の炎を象徴する神格を持ち、医薬にも通じている。神酒ソーマ(神々の飲料・霊薬)を守る。酒や肉を食べず、香を栄養とし、自身からも香気を発する。処女の守護神でもある。 梵名はガンダルヴァ(Gandharva)。乾闥婆と音写。香食と訳す。密教では胎児や幼児の守護神。子供を襲う十五の鬼を捕縛する。 羯鼓(かっこ)のような打楽器を肩からぶら下げ、お腹の前で叩く姿をしている。羯鼓とは雅楽で使われる打楽器。両面に革を張った小さな太鼓。像高は166.0cm。 |
毘舎闍 (びしゃじゃ) |
持国天の眷属。八部鬼衆に数えられる。元はインド神話に出てくる鬼神ピシャーチャ。人肉(死肉)を喰らうことからヴェーダでは喰屍鬼(グール)とも呼ばれる。
梵名はピシャーチャ(Piśāca)。仏教では毘舎闍と音写される。漢訳では啖精鬼(たんしょうき)。人や五穀の精気を食べる。 上半身裸、右手に輪宝を持ち、左手は胸前に上げている(持物欠失)。像高は159.7cm。 |
散支大将 (さんしたいしょう) |
仏法守護の鬼神。金光明経に説かれる夜叉神で二十八部衆の夜叉神の頭領。元々は鬼神だったが毘沙門天(クベーラ)が仏教に帰依したことにより、散支大将(散支夜叉)も仏教に帰依して善神となった。毘沙門天の弟であるとも言われる。
梵名はサンジュネーヤ(Saṃjñeya)。 甲冑姿で右手に独鈷杵、左手に戟(げき)を持つ。像高は161.5cm。 |
満善車鉢 (まんぜんしゃはつ) |
満善車鉢はプールナバドラ(Purnabhadra)とチャガラパーダ(Chagalapāda)の二神の夜叉神を1つの尊名にしている。
満善は主にガンダーラ地方で信仰されていたプールナバドラ。八大夜叉大将に数えられる夜叉神。満賢夜叉(まんけんやしゃ)、満賢大将ともいう。富那跋陀(ふなばっだ)と音写する。 車鉢は金光明経鬼神品に現れる車鉢羅婆。金光明経のサンスクリットではチャガラパーダ(山羊の足を持つ者)とある夜叉神。 三十三間堂の満善車鉢は甲冑姿で右手に独鈷杵、左手は手を開いて下げている。像高は165.1cm。 |
摩尼跋陀羅 (まにばだら) |
毘沙門天に仕える夜叉神。八大夜叉大将に数えられる。
梵名はマニバドラ(Maṇibhadra)。インド神話に出てくる夜叉の名。宝賢夜叉(ほうけんやしゃ)ともいう。クベーラの兄弟で旅行者や商人の守護神。 甲冑姿で左手は拳を作り、右手に独鈷杵を持つ。像高は163.0cm。 |
毘沙門天 (びしゃもんてん) |
帝釈天に仕え、仏法を守護する四天王の一尊。北方を守っている。単独で祀られる時は毘沙門天、四天王では多聞天と表される。元はインド神話の富と財宝の神クベーラ。ヴァイシュラヴァナともいう。
仏教が日本に伝来すると戦いの神として信仰される。聖徳太子は信貴山で戦勝祈願をした際、毘沙門天から戦勝の秘法を授けられている。上杉謙信も毘沙門天信仰で有名。平安時代には庶民の間でも毘沙門天信仰が広まる。発祥は京都の鞍馬寺。室町時代頃からの七福神信仰では七福神の一尊となっている。 梵名はヴァイシュラヴァナ(Vaiśravaṇa)。音写した名前が毘沙門天。ヴァイシュラヴァナは「よく聞く」という意味にも捉えられるので、それを中国語で意訳した名前が多聞天。毘沙門天は吉祥天の夫とされ、夜叉、羅刹が眷属。 甲冑姿で左手に宝塔、右手に戟(げき)を持つ。像高は160.0cm。 |
提頭頼吒王 (だいずらたおう) |
帝釈天に仕え、仏法を守護する四天王の一尊。別名は持国天(じこくてん)。東方の守護神であることから東方天(とうほうてん)とも呼ばれる。
梵名はドゥリタラーシュトラ(Dhṛtarāṣṭra)。「国を支える者・国を治める者」の意味を持ち、国家安泰の功徳がある。乾闥婆(けんだつば)、毘舎闍(びしゃじゃ)が眷属。 甲冑姿で両手に刀を持つ。お腹の前で両手を交差させ、左手の短刀は腰にあて、右手の刀は垂直に下げている。像高は167.6cm。 |
婆藪仙 (ばすせん) |
仏法を守護する護法善神の一尊。胎蔵界曼陀羅や莫高窟の壁画に千手観音の脇侍(きょうじ/わきじ)に描かれる。脇侍とは本尊の両脇に控える菩薩や明王、天などのこと。
元はバラモン教の仙人。殺生の罪を犯し生きながら地獄へ堕ちたが華聚菩薩の力によって救われ、仏門に入って釈迦(ブッダ)へ詣でた。 梵名はヴァス(Vasu)。婆藪と音写。上半身は裸、頭巾をかぶる。右手で杖をつき、左手は肘を曲げて経巻を持つ。裸足の仙人姿をしている。像高は154.5cm。 |
大弁功徳天 (だいべんくどくてん) |
金光明経鬼神品では弁才天と吉祥天を並べて大弁功徳と呼ぶ。胎蔵界曼陀羅では千手観音の脇侍に婆藪仙と功徳天(吉祥天)が、莫高窟の多くの壁画には婆藪仙と功徳天、もしくは婆藪仙と弁才天が描かれる。
弁才天は仏教の天部に属する一尊。七福神の一員で学問・智彗・財宝・幸福などを司る。弁天・大弁才天ともいう。梵名はサラスヴァティー(Sarasvatī)。ヒンドゥー教の川の女神が起源。インドで最も古い聖典リグ・ヴェーダで最上の女神とされる。ブラフマー(梵天)の妻。 吉祥天は仏教の天部に属する一尊。七福神に数える地域もある。美と幸福をもたらす。功徳天や宝蔵天女(ほうぞうてんにょ)ともいう。母は鬼子母神、夫は毘沙門天。梵名はマハーシュリー(Mahaśrī)。ヒンドゥー教の女神ラクシュミー(Lakṣmī)が起源。ラクシュミーは美・富・幸運を司る。ヴィシュヌの妻。別名はシュリー(Śrī)。シュリーはアーリア人がインドの地に侵入する以前、先住民が崇拝していた幸福・繁栄・栄光を司る女神だがラクシュミーと同一視されるようになる。 大弁功徳天は天女の姿で左手は掌を上に向けて胸の高さに、右手は軽く握って胸の高さにある。両手共に持物欠失。像高は166.7cm。 |
帝釈天王 (たいしゃくてんおう) |
仏法を守護する護法善神の一尊。十二天に数えられる。十二天とは古代インドで信仰されていたヒンドゥー教やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となった十二尊のこと。帝釈天・火天・焔摩天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那天・梵天・地天・日天・月天が十二天。
帝釈天は三十三天(忉利天/とうりてん)の主で世界の中心にある須弥山(しゅみせん)の頂にある善見城(ぜんけんじょう)に住み、四天王を従え、須弥山世界を守る。妻は阿修羅の娘シャチー(舎脂)。 元はバラモン教の神インドラ。聖典リグ・ヴェーダで最も多くの賛歌がある天空の支配者、最高神。風水、モンスーンを司ることから豊穣神とされる。雷神の性格を持つ。 梵名はシャクロー・デーヴァーナーム・インドラ(Śakro devānām indraḥ)。優れた神々の帝王。シャクラは勇力を意味し釈と音訳、デーヴァは天・神、インドラは帝王を意味することから仏教では帝釈天と呼ばれる。 甲冑の上に衣をまとい、右手に鏡を持ち、左手は腰元で拳を作る。口ひげをたくわえた姿が特徴。像高は153.9cm。 |
大梵天王 (だいぼんてんおう) |
仏法を守護する護法善神の一尊。十二天に数えられる。色界の初禅天の王。悟りを開いてブッダとなった釈迦が「悟りの内容が難しすぎて人に話してもわかってもらえないのではないか」とためらっていたのを衆生に広めるように説得したのが梵天。これを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)という。
梵名はブラフマー(Brahmā)。ウパニシャッド(古代インドの哲学文献群・奥義書)の最高真理「梵我一如」の梵。宇宙の根本原理ブラフマンが擬人化され、男性の創造神となったのがブラフマー。ヒンドゥー教では全宇宙の創造神。サンスクリットは梵天(ブラフマー)創ったとされるため梵語という。サラスヴァティー(弁才天)の夫。 衣を着て左手に蓋物の器をもち、右手は胸前に上げている(持物欠失)。多くの場合4つの顔に4つの手の四面四臂(しめんしぴ)の姿で表されるが、三十三間堂では1つの顔に2つの手の一面二臂の姿をしている。像高169.7cm。 |
毘楼勒叉 (びるろくしゃ) |
帝釈天に仕え、仏法を守護する四天王の一尊。別名は増長天(ぞうちょうてん)。南方の守護神。
梵名はヴィルーダカ(Virūḍhaka)。毘楼勒叉と音写。ヴィルーダカは増長・成長を意味し、五穀豊穣を司る。鳩槃荼(くばんだ/鬼神)、薜茘多(へいれいた/餓鬼)が眷属。 甲冑姿で左手を腰に当て、右手を上げている(持物欠失)。像高は166.3cm。 |
毘楼博叉 (びるばくしゃ) |
帝釈天に仕え、仏法を守護する四天王の一尊。別名は広目天(こうもくてん)。西方の守護神。
梵名はヴィルーパークシャ(Virūpākṣa)。毘楼博叉と音写。ヴィルーパークシャは特殊な目を有するという意味。千里眼(浄天眼)と拡大解釈され、広目と訳される。龍神、富単那(ふたんな/インドに伝わる悪霊)が眷属。 ヒンドゥー教のシヴァ神も第三の眼を持つのでヴィルーパークシャと呼ばれる。広目天は大自在天(シヴァ神)の化身であったことから、広目天の尊像には本来は額に第三の眼があった。 甲冑姿で左手に戟(げき)、右手に独鈷杵を持つ。像高は160.6cm。 |
薩遮摩和羅 (さしゃまわら) |
薩遮摩和羅は詳細不明。
薩遮は薩遮尼乾子経(さっしゃにけんしきょう)に出てくるジャイナ教の修行者サッチャカの音写。薩遮はサッチャカの可能性は高いが二十八部衆との関係はない。摩和羅は不明。薬師十二神将の摩虎羅大将(まこらたいしょう)の梵名はMahalaなので同一の可能性あり。 左手に鳥が上に乗った棒を持ち、右手は胸前で開いている。像高は160.9cm。 善無畏訳の千手観音造次第法儀軌(せんじゆかんのんぞうしだいほうぎき)では薩遮摩和羅の図像は「左手把宝幢。上有鳳鳥。右手施願印」とあり、三十三間堂の現 薩遮摩和羅と一致している。(参考 千手観音と二十八部衆の謎) |
五部浄居 (ごぶじょうご) |
色界の五浄居天の護法神。五浄居天は第四禅天(四禅九天)のうち、無煩天(むぼんてん)・無熱天(むねつてん)・善現天(ぜんげんてん)・善見天(ぜんけん)・色究竟天(しきくきょうてん)のこと。
梵名はSudhāvāsa。浄居天の神々。 甲冑姿で象頭の冠をかぶり、左手に宝剣、右手は手を開いて下げている。像高は166.3cm。 |
金色孔雀王 (こんじきくじゃくおう) |
金色孔雀王は詳細不明。
金色孔雀王の名は金色孔雀王呪経で初めて出てくるが呪文自体は尊格化されていない。「金色孔雀王は孔雀経を尊格化した孔雀明王のことである」との説明をよく見かけるが、二十八部衆の金色孔雀王は男性、孔雀明王は女性尊と性別が異なる。 莫高窟の壁画には千手観音の眷属として孔雀に乗った孔雀王がガルーダに乗った金翅鳥王と逆の位置に描かれ、中国山西省大同市の西方にある雲崗石窟(うんこうせっくつ)の第八窟には孔雀に乗る鳩摩羅天(くまらてん)が牛に乗る摩醯首羅天(まけいしゅらてん)の逆に彫られている。 チベット大蔵経デルゲ版にある訳者不明の千手観音の儀軌には、金色孔雀王に対応する尊格は鳩摩羅天と訳されている。金色孔雀王は孔雀に乗る鳩摩羅天と孔雀経信仰が習合したものと見ることができる。(参考 千手観音と二十八部衆の謎) 三十三間堂の金色孔雀王は甲冑姿で右手に宝剣を持ち、左手は腰の位置にある。像高は165.1cm。 |
神母女 (じんもにょ) |
仏教を守護する夜叉。インド神話の鬼女ハーリーティーが前身。
ハーリーティーはインドのラージャグリハ(王舎城)で500人(千とも一万人ともいう)の子を持ち、子育てする栄養をつけるため、夜ごと人間の子を捕えて食べていた。子供をさらわれることを恐れた人間が釈迦(ブッダ)に相談すると、釈迦はハーリーティーが最も愛していた末子のピンガラを神通力で隠した。 ハーリーティーは半狂乱となって世界中を探したが結局見つけることができず、釈迦を訪ねて助けを求めると「500人もいる子供のうち、1人いなくなっただけで嘆き悲しんでいる。おまえが取って食べた子の親の中には、たった1人の子を失ったものもいる。親の悲しみがどれだけ深いかお前もわかったでしょう。」と教えられ、改心して仏教の護法神となり、育児や安産を司る神となった。 梵名はハーリーティー(Hārītī)。訶梨帝母(かりていも)と音写。衣を着た老女の姿で合掌している。像高は153.6cm。 |
金毘羅 (こんぴら) |
菩薩蔵経ではラージャグリハ(王舎城)に住む夜叉神。釈迦(ブッダ)から授記を受けた。菩薩蔵経は玄奘三蔵がインドから帰国した後、最初に漢訳した梵語文献。
梵名はクンビーラ(Kumbhīra)。金毘羅と音写。元はインドのガンジス川に住むワニが神格化した水神。ガンジス川を神格化した女神ガンガーの乗り物。 金毘羅は薬師如来十二神将の宮毘羅(くびら)や金毘羅大権現と同一視される。金毘羅信仰では海上交通の守護神として信仰。 甲冑姿で左手に弓、右手に矢を持つ。像高は157.6cm。 |
畢婆伽羅 (ひばから) |
畢婆伽羅は梵名が不明な謎の尊格。
清水寺別当(長官)を務めた定深(1046~1119年)は畢婆伽羅を金光明経鬼神品の獼猴王(みこうおう)と同一視するが、梵名はマルカタ(Markaṭa)なので不一致。チベット大蔵経デルゲ版にある訳者不明の千手観音の儀軌には、畢婆伽羅はハーリーティーとパーンチカの末子ピンガラ(Pingala)とある。(参考 千手観音と二十八部衆の謎) 畢婆伽羅は甲冑姿で右手は手を開き下を向け、左手は胸の位置にある(持物欠失)。像高は165.4cm。 |
阿修羅 (あしゅら) |
仏法を守護する八部衆の一尊。六道のうち修羅道(阿修羅道)を担当。元はインド神話に出てくるアスラ神族(魔神)。アスラ神族はデーヴァ神族(神々)と敵対する勢力。アスラ神族はヴァルナ、デーヴァ神族は雷神インドラ(帝釈天)を中心とする。
梵名はアスラ(Asura)。阿修羅と音写。アス(asu)は生命、ラ(ra)は与えるを意味し、生命を与える者となる。元々は正義を司る善神だったが、娘をインドラに略奪され、インドラに戦いを挑むようになり、復讐に燃える悪鬼とされた。鬼神として扱われるようになると、アスラのア(a)は否定の接続語と解釈され、スラ(sura)は神を意味することから非天(神ではないもの)と訳された。 asuraと古代イラン語ahura(アフラ)は語源的に同一で、アスラはゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) と起源が同じ。ヴァルナがアフラ・マズダーに対応する。 三十三間堂の阿修羅は三面六臂(さんめんろっぴ/3つの顔と6本の腕)で三面とも三眼。左右各1本ずつの腕で胸前で合掌している。持物は欠失。像高は164.8cm。 |
伊鉢羅 (いはつら) |
インド神話に起源を持つナーガと呼ばれるコブラを神格化した龍王。
梵名はエーラパトラ(Elapatra)。伊鉢羅と音写。伊羅鉢旦羅(いらはつたら)や伊羅跋羅(いらばつら)ともいう。 甲冑姿で左手に蛇、右手に槌を持つ。像高は165.1cm。 |
娑伽羅龍王 (さがらりゅうおう) |
仏教を護法する八大竜王の一尊。海や雨を司どる。
梵名はサーガラ(Sāgara)。沙羯羅と音写。大海・龍宮の王・大海龍王を意味する。空海が京都の神泉苑で請雨経法を行った際に現れた善女龍王(ぜんにょりゅうおう)は娑伽羅龍王の第三王女。京都醍醐寺の守護神 清瀧権現(せいりゅうごんげん)も善女龍王とされる。 頭上に5匹の蛇、左手に蛇、右手に宝剣を持つ。像高は165.4cm。 |
蜜迹金剛士 (みしゃこんごうし) |
仁王(二王)の吽形にあたる。阿形(那羅延堅固)と一対で寺院の表門に安置されることが多い。寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての役割を持つ。
梵名はヴァジュラパーニ(Vajrapāṇi)。金剛手を意味する。ブッダを守護する夜叉神。 仁王の阿形と吽形を1体のみで表した像は執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ぶ。執金剛神の梵名もヴァジュラパーニ。起源はギリシア神話の英雄ヘラクレスであるとされ、ガンダーラの仏伝図には髭を生やして獅子の毛皮を身にまとい、手にこん棒を持つヘラクレスの姿で表現された執金剛神が出てくる。蜜迹金剛士も起源は同じとする考え方もある。 三十三間堂の蜜迹金剛士は右手は手を開いて胸の高さ、左手は拳を作って腰元にある。像高は163.0cm。 |
*蜜迹金剛士は一般的には密迹金剛士と表記されるが、三十三間堂の記念誌「無畏」には蜜迹金剛士と表記されているのでこちらを採用。お寺によって表記は異なる。
参考 千手観音と二十八部衆の謎 田中公明著・八部衆・二十八部衆 (日本の美術 No.379)・金光明経 壬生台舜著・ヒンドゥー教の本・印と真言の本

金光明経

ヒンドゥー教の本

印と真言の本
風神・雷神とは
風神雷神は千手観音の眷属で、元はどちらもインドで最も古い聖典リグ・ヴェーダに登場する神です。
風神は不幸や厄災を吹き飛ばし、良縁と繋いでくれる存在です。風神が司る風の流れに身を任せることで物事が勝手にうまくいきます。
雷神は雷が落ちるように一点に狙いを定め、願望を実現してくれる存在です。絶望的な状況だとしても稲妻のような強烈な力で救ってくれます。
三十三間堂の風神雷神の詳細はこちらです。
名 | 詳細 |
風神 | 風を神格化した神。万物を形成する五大(地水火風空)の風を司り、災難や不幸を吹き払って豊穣・福富・子孫繁栄をもたらす。
元は古代インドのヴァーユ(Vāyu)。風を意味する。仏教に取り込まれると風天(ふうてん)と呼ばれ、護法善神である十二天の一尊となり、西北の方位を守護する。 三十三間堂の風神は羅刹形で両手で風袋を持つ。像高は111.5cm。 |
雷神 | 三十三間堂の雷神は古代インドのヴァルナ(Varuṇa)。司法神・天空神。水との関係も深く、後に水の神となる。ナーガ(龍・蛇)と結び付き龍王と呼ばれることもある。
西方のゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーはヴァルナが元。東方ではブラフマー(梵天)に始源神の地位を、ヤマ(閻魔)に司法神の地位を奪われ、水の神の属性が残った。仏教に取り込まれると水天(すいてん)と呼ばれ、護法善神である十二天の一尊となり、西の方位を守護する。 三十三間堂の風神は羅刹形で丸く連なった太鼓を打つ。像高は100.0cm。 |
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神道の風の神は志那都比古神(しなつひこのかみ)。古事記では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が神産みをした時に生まれた。日本書紀では級長津彦命(しなつひこのみこと)と記され、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が朝霧を吹き払った息から生まれたとされる。
志那都比古神を祀る有名な神社には奈良県龍田大社、三重県伊勢神宮の内宮別宮の風日祈宮(かざひのみや)、外宮別宮の風宮(かぜのみや)がある。
神道の雷の神は雷神(らいじん/いかづちのかみ)。雷神様(らいでんさま)・雷公(らいこう)とも呼ぶ。神話や伝承の中で龍蛇神として姿を現すことが多い。
古事記では死んで黄泉の国に行った伊邪那美命を伊邪那岐命が追っていったが、黄泉の国の食べ物を口にした伊邪那美命の体にはうじがたかり、八柱の雷神が生まれていたと伝わる。
・頭 大雷(おおいかづち)
・胸 火雷(ほのいかづち)
・腹 黒雷(くろいかづち)
・陰部 柝雷(さくいかづち)
・左手 若雷(わきいかづち)
・右手 土雷(つちいかづち)
・左足 鳴雷(なるいかづち)
・右足 伏雷(ふしいかづち)
日本書紀では次のように部位と神名が異なる。
・頭 大雷(おおいかづち)
・胸 火雷(ほのいかづち)
・腹 土雷(つちいかづち)
・背 稚雷(わかいかづち)
・尻 黒雷(くろいかづち)
・手 山雷(やまいかづち/やまつち)
・足 野雷(ぬのいかづち/のつち)
・陰部 裂雷(さくいかづち)
雷神を祀る有名な神社には京都賀茂別雷神社や群馬の雷電神社がある。
地蔵菩薩とは

蓮華王院境内 地蔵堂
地蔵菩薩は釈迦が亡くなって56億7000万年後、弥勒如来が出現するまでの間、この地で人々を救う現在の救世主です。
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弥勒菩薩は現在兜率天(とそつてん)で修行している。56億7000万年後、この世に現れて仏(ブッダ)となり、人々を救う。弥勒菩薩は仏になることが決まっている未来仏で弥勒如来とも呼ばれる。
六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を巡って苦しむ衆生を助けてくれます。
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地蔵菩薩は釈迦に頼まれて六道で苦しむ衆生を救うだけでなく、自らも人々を救うため五穀豊穣や無病息災、所願成就など様々な誓願を立て、それらが実現するように活動している。
梵名はクシティガルバ(Kṣitigarbha)と言い、クシティは大地、ガルバは胎児・子宮を意味し、意訳して地蔵です。
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前身は古代インドの地母神プリティヴィー(Pṛthivī)。天空神ディヤウスの妻でインドラやアグニの母。大地の恵みをもたらす。後に男神に変わり、仏教に取り入れられる。中国では地藏王菩薩(じぞうおうぼさつ)と言い、冥界の教主として信仰が厚いことから、日本でも死後の世界(魂)を正しく導く菩薩とされる。閻魔大王の化身。
日本では平安時代中頃から皇族や貴族の間で地蔵菩薩が信仰されるようになり、地蔵堂や地蔵菩薩像が作られた。
民衆の間で地蔵信仰が始まったのは平安時代末期頃。極楽往生を願う貴族は徳を積むために造寺造仏を盛んに行っていたが、私財がなく造営できない庶民は徳が積めず地獄へ輪廻すると考えられ、それに恐れた庶民が六道を担当する地蔵菩薩に救済を求めて信仰するようになった。
地蔵菩薩は袈裟を身にまとった僧侶の姿をしていますが、持ち物は像によって異なります。多いのは次の3パターンです。
- 持ち物なし
- 左手にあらゆる願いを叶える如意宝珠、右手に魔除の道具である錫杖を持つ
- 左手にあらゆる願いを叶える如意宝珠を持ち、右手は与願印(よがんいん)
与願印(よがんいん)とは
人々に慈悲をそそぐことを表す。人々の様々な願いを叶えることを誓う印。
三十三間堂の仏神の真言
三十三間堂の仏神の真言をご紹介します。
千手観音の真言
千手観音の真言はこちらです。
名 | 真言(サンスクリット) | 真言(日本語) |
---|---|---|
千手観音 | オーン ヴァジュラ ダルマ フリーヒ oṃ vajra-dharma hrīḥ | おん ばざら たらま きりく そわか |
二十八部衆の真言
三十三間堂の二十八部衆の真言はこちらです。真言不明の尊格もありますのでわかる範囲でご紹介します。
名 | 真言(サンスクリット) | 真言(日本語) |
---|---|---|
那羅延堅固 (ならえんけんご) | オーン バラヴァジュラ スヴァーハー oṃ balavajra svāhā | おん ばらばざら そわか |
難陀龍王 (なんだりゅうおう) | オーン ナンドーパナンダヨーホ スヴァーハー oṃ nandopanandayoḥ svāhā | おん なんだ ばなんだ えい そわか |
摩睺羅 (まごら) | 不明 | 不明 |
緊那羅 (きんなら) | オーン ハサナーン ヴィハサナーン スヴァーハー oṃ hasanāṃ vihasanāṃ svāhā | おん かさなん びかさなん そわか |
迦楼羅 (かるら) | オーン ガルダヤ スヴァーハー oṃ garudaya svāhā | おん がるだや そわか |
乾闥婆 (けんだつば) | オーン ヴィシュダ スヴァラ ヴァーヒニ スヴァーハー oṃ viśuddha-svara-vāhini svāhā | おん びしゅだ さばら ばけいに そわか |
毘舎闍 (びしゃじゃ) | 不明 | 不明 |
散支大将 (さんしたいしょう) | 不明 | 不明 |
満善車鉢 (まんぜんしゃはつ) | 不明 | 不明 |
摩尼跋陀羅 (まにばだら) | 不明 | 不明 |
毘沙門天 (びしゃもんてん) | オーン ヴァイシュラヴァナーヤ スヴァーハー oṃ vaiśravaṇāya svāhā | おん べいしらまんだや そわか |
提頭頼吒王 (だいずらたおう) | オーン ドゥリタラーシュトラ ラーラー プラマダナ スヴァーハー oṃ dhṛtarāṣṭra-rārā-pramadana svāhā | おん ぢりたらしたら らら はらまだのう そわか |
婆藪仙 (ばすせん) | 不明 | 不明 |
大弁功徳天 (だいべんくどくてん) | 不明 | 不明 |
帝釈天王 (たいしゃくてんおう) | オーン インドラーヤ スヴァーハー oṃ indrāya svāhā | おん いんどらや そわか |
大梵天王 (だいぼんてんおう) | オーン ブラフマネー スヴァーハー oṃ brahmaṇe svāhā | おん ぼらかんまねい そわか |
毘楼勒叉 (びるろくしゃ) | オーン ヴィルーダカ ヤクシャーディパタイェー スヴァーハー oṃ virūḍhaka-yakṣādhipataye svāhā | おん びろだか やきしゃぢはたえい そわか |
毘楼博叉 (びるばくしゃ) | オーン ヴィルーパークシャ ナーガーディパタイェー スヴァーハー oṃ virūpākṣa-nāgādhipataye svāhā | おん びろばきしゃ なぎゃ じはたえい そわか |
薩遮摩和羅 (さしゃまわら) | 不明 | 不明 |
五部浄居 (ごぶじょうご) | 不明 | 不明 |
金色孔雀王 (こんじきくじゃくおう) | 不明 | 不明 |
神母女 (じんもにょ) | オーン ドゥドゥマーリ ハーリティー スヴァーハー oṃ dudumāli hārite svāhā | おん どどまり ぎゃきてい そわか |
金毘羅 (こんぴら) | オーン クンビーラヤ スヴァーハー oṃ kumbhīraya svāhā | おん くびらや そわか |
畢婆伽羅 (ひばから) | 不明 | 不明 |
阿修羅 (あしゅら) | ナーマー サマンター ブッダーナーン ガララヤン スヴァーハー namaḥ samanta-buddhānāṃ garalayaṃ svāhā | のうまく さまんだ ぼだなん がららやん そわか |
伊鉢羅 (いはつら) | 不明 | 不明 |
娑伽羅龍王 (さがらりゅうおう) | 不明 | 不明 |
蜜迹金剛士 (みしゃこんごうし) | オーン フゥーン スヴァーハー oṃ hūṃ svāhā | おん うん そわか |
風神・雷神の真言
風神雷神の真言はこちらです。
三十三間堂の風神はヴァーユ、雷神はヴァルナが元になっていますので、そちらの真言を掲載しています。
名 | 真言(サンスクリット) | 真言(日本語) |
---|---|---|
風神 | オーン ヴァーヤヴェ スヴァーハー oṃ vāyave svāhā | おん ばやべい そわか |
雷神 | オーン ヴァルナーヤ スヴァーハー oṃ varuṇāya svāhā | おん ばろだや そわか |
地蔵菩薩の真言
地蔵菩薩の真言はこちらです。
名 | 真言(サンスクリット) | 真言(日本語) |
---|---|---|
地蔵菩薩 | オーン ハハハ ビスマーイェー スヴァーハー oṃ ha ha ha vismaye svāhā | おん かかか びさんまえい そわか |
三十三間堂の歴史
三十三間堂(蓮華王院本堂)は後白河上皇が院政を行っていた法住寺殿(ほうじゅうじどの)の境内に建てられたお堂です。
後白河上皇の発願により、平清盛の寄進によって1164年(長寛2年)に創建されました。
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988年(永延2年)藤原為光(ふじわらのためみつ)が亡くなった妻と子の弔いのために法住寺を建立。1032年(長元5年)の火災で焼失。
1158年(保元3年)後白河上皇は皇子の二条天皇に譲位して法住寺殿の造営を始め、1161年(永暦2年)に法住寺殿に移って院政を行った。
1169年(嘉応元年)後白河上皇は滋賀県園城寺(おんじょうじ)の大僧正 覚忠(かくちゅう)を呼んで出家し、法皇となって法住寺殿内の仏堂に御住院になった。住院とは住職として寺院に住むこと。

法住寺殿址碑の案内
後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑
法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。上皇になると天皇の住う御所とは別の所に専用の"院御所(いんのごしょ)"を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行われました。後白河院は譲位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路(現・東海道線南・大谷高校辺)から六条大路(現・六条通り)に及ぶ広大な地域で、その地名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。構内は政治的な施設の「北殿(きたどの)」と"常の御所"と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿(みなみどの)」に分かれ、東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍(いらか)を並べたといいます。
永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に、上皇はここに移り以後20年住まいとします。しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。800年の昔に変わらぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、その時代をしのぶ稀有の物証といえるでしょう。

法住寺殿略図

法住寺殿址の石碑

法住寺

法住寺の案内
法住寺殿
天台宗の寺で、永祚元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うために建てた。当時は北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元三年(一一五八)後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に蓮華王院(三十三間堂を本堂とする)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺域を別にして大興徳院と改め、渋谷より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻影像(そば喰い木像)を移したが昭和三十年に法住寺の旧号に復した。
本尊の不動明王像(身代わり不動尊像)は、方除けの像として朝野の信仰を集めたが、後白河天皇は守護仏として崇められ、法住寺を復興されたのも二の像の霊験を体験されたからという。赤穂浪士の大石良雄も義挙の成就を祈願しており、当寺四十七士木像を安置する。京都市
平安時代末期の1183年(寿永2年)、木曾義仲(きそよしなか)の焼き討ち(法住寺合戦)にあいますが、三十三間堂は無傷で残りました。三十三間堂以外はすべて焼失しています。
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木曾義仲(きそよしなか)は信濃源氏(しなのげんじ)の武将。源頼朝、源義経の従兄弟。別名は源義仲(みなもとのよしなか)。
法住寺合戦後、後白河法皇は六条西洞院の長講堂で過ごしていたが、1192年(建久3年)3月13日に66歳で崩御。遺体は法住寺殿跡地に建てられた蓮華王院東法華堂(現 法住寺陵/ほうじゅうじのみささぎ)に葬られた。
三十三間堂は1185年(文治元年)の大地震で倒壊。1191年に源頼朝が再建しますが、1249年(建長元年)に起きた建長の大火で焼失します。
1266年(文永3年)後嵯峨上皇によって再建された建物が現在のお堂です。
室町時代は本堂が荒廃していましたが、室町幕府第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)の命で1433年(永享5年)から5年をかけて修復されています。
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足利義教の父は金閣寺を建てた3代将軍足利義満、子には銀閣寺を建てた足利義政がいる。
1586年1月18日に起きた天正地震では千体千手観音像600体が倒れる被害を受けます。
同年に豊臣秀吉が大仏殿方広寺の造営を三十三間堂の北隣に開始し、大仏殿は1595年(文禄4年)に完成。三十三間堂や後白河上皇の御陵も方広寺境内の一部とされていました。
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大仏殿が完成した翌年1596年、慶長伏見地震により大仏殿は倒壊を免れたが大仏が倒壊。秀吉の意志を継いだ豊臣秀頼は1599年(慶長4年)銅造での大仏復興を図るが、1602年(慶長7年)流し込んだ銅が漏れて火災が発生し、復興中の大仏と大仏殿は全て焼失した。
1608年(慶長13年)に再建が開始され、4年後の1612年(慶長17年)に大仏殿と大仏が完成。1662年(寛文2年)の地震で大仏が破損するが、5年後の1667年(寛文7年)に木造で再興された。木造の大仏は1798年(寛政10年)落雷が大仏殿に落ちて火災で焼失。それ以降は同様の規模での再建はされていない。
現在の方広寺は三十三間堂の近くの豊国神社の隣に位置し、巨大な石垣や創建当時の梵鐘が残っているお寺として知られる。
1649年(慶安2年)には徳川家光の命によって三十三間堂の修理が始まり、1651年(慶安4年)に完了しています。
1897年(明治30年)古社寺保存法により三十三間堂は特別保護建造物に指定され、1930年(昭和5年)の昭和期修理、1937年(昭和12年)の千体千手観音像の修理、1973年(昭和48年)の千体千手観音像の修理を経て今に至ります。
三十三間堂のおすすめの順路と参拝方法
三十三間堂のおすすめの順路と参拝方法をご紹介します。三十三間堂は基本的に参拝順路が決まっています。
なお、三十三間堂は堂内撮影NGです。撮影OKの場所のみ写真を掲載しています。
①普門閣(受付所)で拝観券を購入

三十三間堂 普門閣
普門閣で拝観券を購入します。
- 大人…600円
- 中学生…400円
- 子供…300円
*25名以上の団体ならそれぞれ50円割引
時期 | 参拝受付終了時間 | 開堂と閉堂時間 |
4月1日〜11月15日 | 午後4時30分 | 午前8時30分〜午後5時 |
11月16日〜3月31日 | 午後3時30分 | 午前9時〜午後4時 |

参拝期間と時間の案内
受付所を通過して右に行くと無料のロッカーがあり、荷物を預けることができます。
②本堂の参拝口から入る

三十三間堂 参拝口
本堂の参拝口から入り、下駄箱に靴を預け、参拝順路に従って拝観します。堂内は土足禁止、撮影禁止です。

三十三間堂 参拝口の下駄箱
③風神に参拝
堂内入口には風神像が安置されています。一般的に知られる風神のモデルになった風神像です。

風神像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
④北側の二十八部衆と千体千手観音立像に参拝
二十八部衆像と千体千手観音立像の北台500体にご挨拶します。
入り口付近の千体千手観音立像は第十群 北至境(ほくしきょう)になり、901〜1000号像が安置されているので、順路を進むに連れて501号像に向かう流れになります。

北側の二十八部衆と千体千手観音立像
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
二十八部衆の1〜12号像はこちらの仏神です。
番号 | 尊名 |
1 | 那羅延堅固(ならえんけんご) |
2 | 難陀龍王(なんだりゅうおう) |
3 | 摩睺羅(まごら) |
4 | 緊那羅(きんなら) |
5 | 迦楼羅(かるら) |
6 | 乾闥婆(けんだつば) |
7 | 毘舎闍(びしゃじゃ) |
8 | 散支大将(さんしたいしょう) |
9 | 満善車鉢(まんぜんしゃはつ) |
10 | 摩尼跋陀羅(まにばだら) |
11 | 毘沙門天(びしゃもんてん) |
12 | 提頭頼吒王(だいずらたおう) |
⑤中尊に参拝
お堂中央の千手観音坐像(中尊)にご挨拶します。

千手観音坐像(中尊)の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
こちらでは献灯と献香ができます。ご朱印も中央で頂けます。(ご朱印300円)
⑥中尊周囲の二十八部衆に参拝
中尊の四方に安置されている二十八部衆13〜16号像にご挨拶します。

中尊周囲の二十八部衆
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
二十八部衆の13〜16号像はこちらの仏神です。
番号 | 尊名 |
13 | 婆藪仙(ばすせん) |
14 | 大弁功徳天(だいべんくどくてん) |
15 | 帝釈天王(たいしゃくてんおう) |
16 | 大梵天王(だいぼんてんおう) |
⑦南側の二十八部衆と千体千手観音立像に参拝
二十八部衆像と千体千手観音立像の南台500体にご挨拶します。
中尊付近の千体千手観音立像は第五群 南晶聚(なんしょうじゅ)になり、401〜500号像が安置されているので、順路を進むに連れて1号像に向かう流れになります。

南側の二十八部衆と千体千手観音立像
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
二十八部衆の17〜28号像はこちらの仏神です。
番号 | 尊名 |
17 | 毘楼勒叉(びるろくしゃ) |
18 | 毘楼博叉(びるばくしゃ) |
19 | 薩遮摩和羅(さしゃまわら) |
20 | 五部浄居(ごぶじょうご) |
21 | 金色孔雀王(こんじきくじゃくおう) |
22 | 神母女(じんもにょ) |
23 | 金毘羅(こんぴら) |
24 | 畢婆伽羅(ひばから) |
25 | 阿修羅(あしゅら) |
26 | 伊鉢羅(いはつら) |
27 | 娑伽羅龍王(さがらりゅうおう) |
28 | 蜜迹金剛士(みしゃこんごうし) |
⑧雷神に参拝
雷神像にご挨拶します。こちらも風神と同様、よく知られる雷神のモデルになった雷神像です。

雷神像の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
⑨1001号像(後戸仏)に参拝
参拝順路に従って堂内を進むと、中尊の裏側に千体千手観音立像1001号像が安置されています。

1001号像(後戸仏)の位置
参考 三十三間堂 国宝指定記念誌「無畏」
⑩授与所に立ち寄る
さらに進んだ先には授与所があります。ご紹介した頭痛封じ守や破魔矢、無畏を頂くことができます。
*破魔矢のみ授与期間あり。10月1日~2月後半頃。
⑪参拝口から出て手水舎へ向かう
参拝口から出て、普門閣(受付所)を正面にして右手に進むと手水舎があります。この手水舎が夜泣き泉(よなきせん)です。

夜泣き泉(よなきせん)
この↑左に見えるのは三十三間堂です。外からゆっくり見ることができます。

三十三間堂
手水舎の近くには東大門、

蓮華王院 東大門

蓮華王院 東大門

境外から見た東大門
小塔、

蓮華王院 小塔
石碑、

蓮華王院 碑
法然塔などがあります。

法然塔
法然塔は法然上人霊場の1つとして残された石碑で、6文字「南無阿弥陀仏」と書かれています。

法然塔の案内
法然塔(名号石)
元久元年(1204)3月、時の土御門天皇が当院で後白河法皇の13回忌を行った際、請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼讃(ろくじらいさん)」という法要を修しました。この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられ、いまも参拝する方々があります。上人は"浄土の経文"を書写し、参集した人々にも紙を分け与えて念仏・写経を勧めたといわれています。刻まれた「六時の名号」は温雅で素朴ながらも力強く、数多の法難をのりこえて念仏に専修した上人の人柄が偲ばれるようです。
なお、境内には遊歩道が整備されています。

境内の遊歩道の案内
⑫地蔵堂で参拝

地蔵堂
地蔵堂は普門閣(受付所)を正面にした右手にあるので手水舎から少し戻ります。

地蔵堂
中央手前が金剛界大日如来像、その奥に阿弥陀如来像、周囲には地蔵菩薩像が祀られています。夜泣き封じのご利益があります。

地蔵堂の案内
地蔵堂
回廊の北端にある小堂で、地蔵・大日・阿弥陀等の石像が奉られています。とくに幼児の「夜泣き封じ」のご利益があるといわれ、今も参拝する方が絶えません。
⑬久勢稲荷社に向かう
手水舎の方へ進み、久勢稲荷社に向かいます。途中、鐘楼や

蓮華王院 鐘楼

蓮華王院 鐘楼
太閤塀があります。

太閤塀
⑭久勢稲荷社で参拝

久勢稲荷社
蓮華王院の鎮守社である久勢稲荷社で参拝します。
創建は不明ですが久勢稲荷大明神(くせいなりだいみょうじん)という神様が祀られています。
鳥居の奥、お社の右手前には宝珠をくわえた狐像が、左手前には巻物をくわえた狐像が狛犬の代わりに立っています。
もっと詳しく
宝珠を加えた狐像は稲荷神の霊徳の象徴。稲荷神の徳の真理に従い、すべてに愛を持ち徳を積んでいく意味がある。巻物を加えた狐像は知恵を象徴。諸願成就のご利益を大いに授かることができる。
本堂西側では通し矢が行われていた廊下を見ることができます。

通し矢が行われていた廊下
また、本堂の西側には次のような石碑や小塔もあります。
⑮普門閣(受付所)から出る
本堂の周囲を一周する形で普門閣(受付所)から出れば完了です。
三十三間堂のアクセスマップ
【住所】京都府京都市東山区三十三間堂廻り町657
【アクセス】・京阪本線 京阪七条駅徒歩7分
・JR京都駅から市バス「100・206・208系統」七條京阪前行き(約10分)→「博物館三十三間堂前」下車でお堂前着
【駐車場】約50台(無料)
まとめ
三十三間堂の千手観音坐像、千体千手観音立像、二十八部衆、風神雷神の姿は圧巻です。
特に千体千手観音立像は2018年以前、数体が美術館に貸し出されていたので、すべてが揃っている姿を見ることは滅多にできませんでした。
今はその姿をいつでも見ることができるので、タイミングが合う時にぜひ一度訪れてみてください。