お金の悩みを解決したいなら大阪にある住吉大社が最強です。
住吉大神(すみよしおおかみ)は神道で最も重要な祓いを司る神様です。お金や金運を阻害するマイナスの要素を全て浄化し、すぐさま現世ご利益をもたらしてくれます。
また、ただ願い事を実現してくれるだけではありません。住吉大社には
- 住吉大社の御祭神は四神
- 住吉大社の社紋は花菱で四角形(菱形)
- 住吉鳥居の柱は四角形
- 初辰まいりでお参りするのは四社
と、「数秘術の4」と「四角形のエネルギー」のマジックが様々なところに仕掛けられています。
数秘術の4は物事を安定させる力を持ち、四角形は現世ご利益を作る四大(地水火風)の地のエネルギーを表すので、住吉の神様は現世ご利益をもたらした上で、さらにそのご利益が継続するように安定化までしてくれます。
この記事では、住吉大社のご利益や住吉大社ならではの魅力、おすすめの順路と参拝方法などをまとめました。
地球は表面の約70%が水(海)で覆われている水の惑星です。地球の三層構造(海底・海水・大気圏)の全ての水のエネルギーを司る海神 住吉大神は、
- 今すぐお金が必要
- もっとお金が欲しい
- 借金で困っている
- 資金繰りが厳しい
など、お金に対するどんな悩みも解決してくれます。
「今月お金を用意できないともうダメ!」といった場合でも何とかなると言われるほど本当に力のある神様です。ぜひ一度参拝してみてください。
*現在郵送でのご祈祷を受けることができます。 *授与品の金額はお受けした当時の金額です。 |
住吉大社のご利益
住吉大社のご利益はこちらです。
- 金運上昇
- 商売繁盛
- 出世開運
- 除難災厄
- 心願成就
- 好機判断
- 航海安全
- 農耕・産業隆昌
- 縁結び
住吉大社の御祭神はお金の問題を解決してくれる現世ご利益最強の神様ですが、実際にはあらゆる願い事を叶えてくれる万能の神様です。
お金や金運など金銭関係以外の願い事も実現させるお力をお持ちです。
住吉大社で必ず手にしたい授与品
住吉大社で必ず手にしたい授与品は5つです。
①商運守護守
商運守護守は商売運を守護するお守りです。(初穂料一体1,000円)
萬の罪・穢れを祓い浄める住吉大神の御神徳と頑固な意志を与える神功皇后(じんぐうこうごう)の御霊力があるだけでなく、次の摂社末社の御祭神のご利益も備わっています。特に経営者またはこれから商売を始める方におすすめです。
- 種貸社「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」…元種(資本金)と知恵を授ける御神徳
- 楠珺社「宇迦魂命(うがのみたまのみこと)」…商売発達の御神徳
- 浅澤社「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」…愛想・機転を授ける御神徳
- 大歳社「大歳神(おおとしのかみ)」…集金満足・収穫・収益をもたらす御神徳
- 大海神社「豊玉彦命(とよたまひこのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」…物事の好機を判断する御神徳
- 船玉神社「天鳥船命(あめのとりふねのみこと)・猿田彦神(さるたひこのかみ)」…常に正しき方向へと導き、沈まぬように守護する御神徳
- 鉾社「経津主命(ふつぬしのみこと)」…好機に攻める力を授ける御神徳
- 楯社「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」…危機を守る御神徳
商運守護守はクレジットカードほどの大きさなのでお財布やカードケースに入れて常に持ち歩きましょう。
②五大力守
五大力(ごだいりき)守は「体力・智力・財力・福力・寿力」の5つの力を持つ黄金色の三角形のお守りです。(初穂料一体1,000円)
心願成就に必要な五行の木火土金水(もくかどごんすい)すべての力を得ることができます。
普段から持ち歩くカバンやバッグに付けるのがおすすめです。
五行とは
万物は木火土金水の五大要素から成り立っていて、互いに影響しあっている。紀元前の古代中国で生まれた思想。
③七彩守
パープル・藍色・ブルー・エメラルドグリーン・レモンイエロー・オレンジ・レッドの虹色の七彩守は「あらゆる災難を祓い、福徳に転ずる霊力」を得られます。
お祓いや厄徐のご利益があるだけでなく、チャクラの色にも対応しているのでチャクラも整えることができます。
七彩守はキーホルダーよりも小さいので、カバンやバッグに付けるのがおすすめです。(初穂料一体1,000円)
④潮満珠・潮干珠守
潮満珠(しおみつたま/ブルー)・潮干珠(しおひるたま/ホワイト)のお守りは物事が思いのままに行くように祈念されているお守りで、心願成就や好機判断のご利益があります。
潮満珠・潮干珠は海幸彦山幸彦の神話の中で、山幸彦が海神から授かった「潮の満ち引きを支配する」霊力のある珠(玉)です。
潮満珠は摂社大海神社(だいかいじんじゃ)にある「玉の井」と呼ばれる井戸に、潮干珠は堺市にある宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)の飯匙堀(いいがいぼり)という堀にそれぞれ沈められていると伝わります。
海幸彦山幸彦の神話の中で山幸彦が海神より授かったと伝えられる潮満珠は、住吉大社境内の大海神社前の玉ノ井に、潮干珠は堺市内の宿院頓宮境内の飯匙堀に沈められていると伝わっております。この御守は潮の干満を支配する力を持つと言われている二つの珠を象ったもので、この珠を持つことにより、物事が思いのままに行きますよう祈念されております。(住吉神社 潮満珠・潮干珠守)
海幸彦山幸彦の神話
天孫降臨で天降った邇邇芸命(ににぎのみこと)の子には「兄の火照命(ほでりのみこと)」と「弟の火遠理命(ほおりのみこと)」がいた。
兄は海の漁が得意だったので海幸彦(うみさちひこ/海佐知毘古/漁師)として魚をとり、弟は山の猟が得意だったので山幸彦(やまさちひこ/山佐知毘古/猟師)として獣を狩っていた。
ある日、弟の山幸彦が兄の海幸彦にお互いの道具を交換しようと提案するが海幸彦は断った。山幸彦が説得してお互いの道具を交換してみたが、山幸彦は魚が一匹も釣れなかった上に海幸彦の釣針を海に落としてなくしてしまう。
兄の海幸彦も獲物をとることができず、自分の釣針を返してもらおうとすると、山幸彦から釣針を無くしたことを告げられ、山幸彦を責め立てた。山幸彦は自分の十拳劔(とつかのつるぎ)から1,000の釣針を作って謝ったが、海幸彦は「元の釣針が欲しい」と受け取らなかった。
海幸彦に怒られた山幸彦が海辺で泣き悲しんでいると塩椎神(しおつちのかみ)が現れた。事情を話すと塩椎神は小舟を造り、綿津見神宮(わたつみのかみのみや)に行くことをすすめた。
「ここから船に乗って潮に流されるまま進みなさい。私が貴方を導きます。やがて宮殿が見えるので、その入り口の泉のそばにある1本の木に登り待ちなさい。」
この言葉に従い、山幸彦が海神の宮殿前の木に登って待っていると豊玉姫(とよたまひめ/豊玉毘売)と出会う。豊玉姫は山幸彦を一目見るなり恋に落ち、豊玉姫の父である海神(大綿津見神)にも歓迎され、山幸彦と豊玉姫は結婚した。
楽しく暮らしているうちに3年が経ち、山幸彦は帰ることにする。探していた釣針は赤鯛が飲み込んでいたことがわかり、綿津見神は釣針と呪文、潮満珠(しおみつたま)、潮干珠(しおひるたま)を山幸彦に渡し、山幸彦は地上に戻った。その後、兄の海幸彦を授かった呪文や玉でこらしめて忠誠を誓わせた。
宿院頓宮についてはこちらで詳しくお伝えしています。
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⑤十二支土人形
十二支土人形は十二支の土人形です。開運招福のご利益があります。
自分の干支は一生自分を守り育てる動物です。
住吉大社には十二支すべてが揃っているので、自分の干支のお守りを持っていない方はぜひ頂くことをおすすめします。(初穂料一体1,000円)
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住吉大社ならではの魅力
住吉大社ならではの魅力は13個あります。
①五大力の石
住吉大社の五所御前(ごしょごぜん)の玉砂利の中には「五・大・力」と1文字ずつ書かれた石があり、この3つの石を拾ってお守りにすると「体力・智力・財力・福力・寿力」の霊力が得られて願い事が叶うと人気です。
五所御前(ごしょごぜん)とは
約1,800年前、住吉大神が鎮座した際に最初に祀られた神聖な場所で、別名を高天原(たかまがはら)ともいう。神功皇后が住吉大神を祀るための地を探している時、五所御前の石垣の中に立つ一本の杉(御神木)に3羽の白鷺(しろさぎ)が止まったのを見て鎮座地に決めたと伝わる。
五大力は神仏習合の時代の五大力尊信仰が強く影響していますが、住吉大社の五大力の石には七五三(753)の数秘術のマジックが仕込まれています。
五大力尊とは
五大力尊は次の五大明王の総称。人々からあらゆる災難を祓い除け、無事息災、安泰隆昌などを守護をする。
・不動明王(ふどうみょうおう)
・大威徳明王(だいいとくみょうおう)
・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
・降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
まず7は五大力尊のお力である七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)の7です。
五大力尊仁王会は真言密教秘奥の大法義で、七難即滅・七福即生の一大祈祷を行う最上無比の儀式になります。
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仁王会(にんのうえ)とは仁王般若波羅蜜経を講じて国の平和や国民の幸福を祈願する朝廷の大法要のこと。660年(斉明天皇6年)5月に行われた一代一度大仁王会が始まり。真言宗の仁王会は810年(弘仁元年)に弘法大師空海が行なったのが始まりとされる。
五大力さんで有名な京都の醍醐寺では第60代醍醐天皇の時代である907年(延喜7年)まで遡ることができる。空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう)が874年(貞観16年)に醍醐寺を開山して以来、今日に至るまで毎年2月23日に五大力尊仁王会が行われている。2月23日には仁王会に先立って15日から21日までの7日間、1000人以上の僧侶でご祈祷されたご本尊五大力尊の分身「御影(みえい)」がこの日限定で授与される。御影にはあらゆる災難を除けるご利益がある。
7は一週間の7、七芒星の7でもあり、不幸が入り込めないようにする時間のマジックも隠れています。
5は五大力の意味である五行(木火土金水)、五大(地水火風空)、五大力、五大明王、五芒星など五行を身に付けた力のことで、3は3つの石を拾うことにより三位一体(父と子と聖霊)、福禄寿の力を得られることになります。
まとめると次のようになり、3つ合わせて七五三になります。
- 7…七難即滅・七福即生・時間のマジック
- 5…五行(木火土金水)、五大(地水火風空)、五大力、五大明王、五芒星など五行を身に付けた力
- 3…三位一体(父と子と聖霊)、福禄寿を得られる
また、土星の魔方陣の真ん中は七五三になるので、これら3つを揃えることで現世ご利益を作る土のエネルギーが発動するマジックになっています。
土星の魔方陣とは
五行の土に属す数字でできた魔方陣のこと。縦横斜めのどこを足しても15になる。
五大力の3つの石を集めたら、先ほどご紹介した黄金色の五大力守と五大力の石を合わせて普段から持ち歩くのがおすすめです。「3つの石の3」と「三角形の五大力守の3」を合わせて六芒星になり、この世界に願い事が早く降りてくるようになります。
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3つの石は住吉大神が降臨した聖地で拾うので水のエネルギーが、五大力守は三角形であること、そして五大力尊は火の神なので火のエネルギーが備わっている。それぞれを合わせると火と水が合わさって火水(かみ)、つまり神になる。
五大力の石を拾うのは無料です。見つけた石を入れるお守り袋は御守授与所で初穂料300円で頂けます。
なお、願い事が叶ったら小石を3つ近所で拾い、それぞれの石に自分で「五・大・力」と書き、五所御前で拾った石と共に倍返し(合計6つ)するのがポイントです。
6つ返すことで空海の教えである六徳と繋がり、魂が浄化されてさらに八百万の神々が守ってくれるようになります。簡単に言えば不幸が消えてさらに幸せになるということです。
【五大力の石について】
五所御前の垣内の玉砂利に書かれた「五」「大」「力」の各字が記された小石を探し出して下さい。三つ揃えて所持すれば心願成就のお守りとなる信仰がございます。小石を入れる専用の「五大力守袋」が授与所にございます。(初穂料300円)小石を袋に入れる際には願い事を込めながら入れて下さい。願い事が叶うまで五大力守を持っていただき、願いが叶えばご自宅近くで拾った小石にご自身で「五」「大」「力」と書き合計六つの小石を元の場所に倍返しして下さい。五大力守は授与所へ返納して下さい。五所御前…住吉大神を最初に祀った聖地
五大力…体力・智力・財力・福力・寿力
(住吉大社)
②おもかる石
住吉大社末社の大歳社の境内には、願い事が叶うかどうかを占うことができる不可思議な霊石「おもかる石」があります。
おもかる石に手を当て、心の中で願い事を言ってから持ち上げた時、軽いと感じれば願い事は叶う、重いと感じると叶わない(好転への努力が必要)となっています。
占い方は簡単なのでぜひ試してみてください。
おもかる石の占い方
まず二拝二拍手一拝、次に霊石を持ち上げ重さを覚える、次に霊石に手を当て祈る、次に再び持ち上げた重さの感じが「軽い=かなう」「重い=好転へ努力」、次に二拝二拍手一拝して完了。*指詰めに注意して下さい(大歳社・おいとしぼし社)
なお、おもかる石は全部で3石ありますが、どの石で占っても大丈夫です。
③本殿の配置
出典 住吉大社
住吉大社の本殿は第一本宮から第四本宮まで4つの社殿があり、第一本宮より第三本宮までは一直線上に並び、第四本宮は第三本宮の横に建っている他の神社では見ることのできない社殿配置になっています。
本殿はすべて西向きで大阪湾(瀬戸内海)の航海安全を守護していると言われますが、西方位は憧れと願望を満たす未来の国、先祖が住むと言われる過去の国とされるので「あの世」と「この世」を見守ってくれているとも考えられます。
④国宝|住吉造
住吉大社の本殿4棟は伊勢神宮の神明造、出雲大社の大社造と並ぶ最古の神社建築様式の1つ「住吉造(すみよしづくり)」と呼ばれる様式で、全て国宝建造物に指定されています。
現存の本殿は江戸時代の1810年(文化7年)に造営されたものになり、丹塗(にぬり)・桧皮葺(ひわだぶき)・直線型妻入式造(つまいりしきつくり)で造られていて、室内は外陣と内陣の二間に分かれ、柱は丹塗、壁は胡粉塗(ごふんぬり)になっています。
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桧皮葺はヒノキの皮を敷き詰めて屋根をふいたもの。胡粉塗(ごふんぬり)はカキなどの貝殻を磨り潰した塗料。
ちなみに第一本宮から第三本宮の屋根の千木(ちぎ)の両端は垂直に切られていますが、第四本宮だけは水平になっています。
一般的に千木は建造物の補強の役割があると言われますが、垂直に切られている千木の社殿には男神が、水平に切られている千木の社殿には女神が祀られていると区別する装飾具とも言われています。
住吉大社の場合、第一本宮・第二本宮・第三本宮には男神が、第四本宮には女神が祀られているのでピッタリ当てはまります。
⑤太鼓橋
西にある大鳥居の先に住吉大社の象徴の1つである反橋(そりばし)、通称太鼓橋(たいこばし)があります。
太鼓橋は神界と人間界をつなぐ掛け橋とされ、昔は神様だけが渡ることができましたが、現在は誰でも渡ることができ、渡るだけで「おはらい」になると言われています。
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住吉大社の境内近辺は昔住吉(すみのえ)という白砂青松の海岸で、反橋付近まで波が打ち寄せていた。その美しさから清江(すみのえ)とも書いた。万葉集には次のようにある。
住吉の沖つ白波風吹けば來寄する濱を見れば淨(きよ)しも 万葉集 一一五八
住吉の岸の松が根うちさらし寄り來る波の音の淸らに 万葉集 一一五九
太鼓橋は長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで中央に行くにつれて傾斜が強まります。
現在の石の橋脚(きょうきゃく)は慶長年間(1596年~1615年)に淀殿(よどどの)が奉納したものと伝わっています。
淀殿(よどどの)とは
豊臣秀吉の側室で幼名は茶々。父は浅井長政、母はお市(織田信長の妹)。淀君(よどぎみ)とも呼ばれる。
太鼓橋が架かる神池には亀や鯉がいるので、見やすい最頂部でぜひ一度立ち止まって眺めてみてください。風がなく波立たない時は水面に浮かぶ逆反橋の景色を見ることができます。
関西夜景100選に選ばれる夜のライトアップ(21時まで)も幻想的です。
⑥住吉鳥居
住吉大社には住吉鳥居と呼ばれる鳥居があります。
貫(ぬき)の両端が柱から外に出ていない、そして柱が四角であることが特徴と言われています。
住吉鳥居は若宮八幡宮や種貸社で見ることができます。
⑦幸寿門・幸福門・幸禄門
住吉大社には福禄寿のご利益がある3つの門があります。
太鼓橋を渡った正面にある幸寿門(こうじゅもん)は寿命(健康)のご利益があります。
船玉神社付近にある幸福門(こうふくもん)は幸せのご利益があります。
授与所付近にある幸禄門(こうろくもん)はお金のご利益があります。
願い事がお金や仕事、健康、恋愛でも何にしろ、願望を最大限に引き寄せたい場合は「寿(寿命・健康)→福(幸せ)→禄(お金)」の順番でくぐるのがポイントです。
福禄寿の土台は「寿(寿命・健康)」です。
体を良くすることで幸せやお金がその土台の上にどんどん乗っかり、結果的に多くの福禄(幸せとお金)を受け取ることができます。
逆に言えば、寿の土台がしっかりしていないと上に乗る幸せとお金は少なくなりますし、土台がしっかりしていれば本来受け取ることができた幸せとお金も逃してしまうことになります。
寿が用意できたら次は福(幸せ)を頂き、幸せを用意したら最後に禄(お金)を頂きます。そうすると「寿の土台ができる→幸せを喜ぶ→お金が入ってくる」とご利益を最大限受け取ることができます。
おすすめの門のくぐり方
住吉大社で初めて参拝する時は幸寿門をくぐって境内に入り、最後にまた幸寿門をくぐって境内から出て「寿」をメインに頂く。
2回目の参拝の時は幸寿門をくぐって境内に入り、最後に幸福門をくぐって境内から出る。「寿」と「福」を頂く。
3回目の参拝の時は幸寿門をくぐって境内に入り、最後に幸禄門をくぐって境内から出る。「寿」と「禄」を頂く。
遠方にお住まいなど3回も訪れることが難しい場合は初めて参拝する時に「幸寿門→幸福門→幸禄門」の順番で全ての門をくぐってOK。
⑧遣唐使進発の地
遣隋使や遣唐使は中国大陸に向けて出発する際、住吉神に海上航海の安全を祈願して墨江(すみのえ/住吉)の津から出航していました。
607年(推古天皇15年)に聖徳太子の命令で遣隋使として派遣された小野妹子(おののいもこ)たちもそうですし、804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡った空海や最澄もみんな住吉の地から出発しています。
それだけ力のある神社であり、重要視されていた神社であることがわかります。
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住吉神は第16代仁徳天皇(西暦290年~西暦399年)が墨江之津(すみのえのつ)を開港して以来、遣隋使や遣唐使など航海の守護神として崇敬されている。墨江之津は古代より住吉大社付近に存在した港。現大阪市住吉区付近から西に流れていた細江川の河口の入江。
ちなみに遣唐船は4隻1組で出航していたが、住吉大社の御祭神4柱の守護を目的にしていたと考えられる。
⑨初辰まいり
「初辰(はったつ)まいり」は毎月最初の辰の日に参拝する住吉大社独特の参拝方法で、商売発達と家内安全に抜群のご利益があります。
特に経営者の方に人気があり、その絶大な商売繁盛のご利益を求めて毎月初辰の日には全国各地から多くの方が訪れます。
初辰まいりは「種貸社(たねかししゃ)→楠珺社(なんくんしゃ)→浅澤社(あさざわしゃ)→大歳社(おおとししゃ)」の順で参拝し、商売や家庭の発達繁栄のご利益を頂く巡拝の旅です。
- 種貸社…願いの種を頂き資本充実を祈願する
- 楠珺社…願いの発達を祈る
- 浅澤社…芸事や美容の願いの福を頂く
- 大歳社…集金・収穫・収益・所願成就のご利益を頂く
4年を一区切りとして合計48回(48ヶ月)の初辰まいりで満願成就になります。
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4年を一区切りとしているのは「四十八辰(しじゅうはったつ)=始終発達」の意味が由来。毎月の初辰まいりを4年も続けられること自体が成功している証拠であり、無事に発達していることになる。
なお、初辰まいりの中心の神社である楠珺社の授与所で頂ける招福猫(しょうふくねこ)を集めるのが初辰まいりの醍醐味の1つとなっています。(初穂料1体500円)
右手を挙げているのが「お金を招く」招福猫で、左手を挙げているのが「人を招く」招福猫です。大きさは高さ約3.5cmです。
この招福猫(小猫)を48体集め、満願成就の証として納めます。
初辰まいりについてはこちら↓で詳しくお伝えしています。
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商売発達なら大阪にある住吉大社の「初辰(はったつ)まいり」が最強です。 初辰まいりは毎月最初の辰の日に「種貸社・楠珺社・ ...
➉住吉神兎
住吉大社の第四本宮の前にいる翡翠(ひすい)製の住吉神兎(すみよしうさぎ)を撫でながら祈願すると無病息災のご利益があります。
住吉神兎は住吉大神の鎮座が卯年・卯月・卯日だったことから、神の使いとして卯年の2011年(平成23年)に建てられました。多くの参拝者が撫でて祈願しています。
なお、幸寿門付近にはうさぎのおみくじがあります。(初穂料一体500円)
⑪一寸法師発祥の地
おとぎ話で知られる一寸法師は住吉大神の申し子だったと伝わり、住吉大社(種貸社)では立身出世・子宝・安産の神様として厚く信仰を集めています。
一寸法師は日本で知られる説話の1つですが、現在伝わっている話は室町時代から江戸時代にかけて成立したと言われる物語集御伽草子(おとぎそうし)が元になっています。
この御伽草子の説話から、住吉大社が一寸法師発祥の地とされています。
御伽草子「一寸法師」のあらすじ
津の国の難波の里に子供に恵まれない老夫婦が住んでいた。住吉の神様にお願いをしてお婆さんは41歳で子供を身ごもったが、生まれてきた男の子は身長が一寸(約3cm)しかなく、一向に大きくならなかったので一寸法師と名付けた。
一寸法師は13歳になっても身長が伸びなかった。老夫婦は一寸法師のことを化け物か妖怪ではないかと不気味に感じ、なぜ住吉大明神は自分たちにこのような罰を与えるのかと思うようになる。これでは嫁も来ないし老後も面倒みてもらえないと老夫婦は考え、一寸法師をどこかにやって立派な男の子を養子にもらいたいものだと話し合った。
自分のことを良く思っていないことを知っていた一寸法師は追い出される前に自分から家を出ることにした。お椀を船に、お箸をオール代わりに、腰に針の剣を差して住吉の浦(津)から旅立ち、武士になるために京へと上った。京都の三条の宰相殿の屋敷に偶然辿り着いた一寸法師は宰相殿に気に入られて可愛がられた。
そうこうしている内に一寸法師は16歳になったが背丈は変わらなかった。一寸法師は13歳になる宰相殿の美しい姫に一目惚れをしていたが、身分も背丈も違うので叶わない恋だった。想いを募らせていた一寸法師は一計を案じた。
祈祷などに使用する神聖な米を用意し、寝ている姫の口元に米を何粒かくっつけた。翌朝宰相殿に「神聖な米を姫が盗んで食べた」と嘘をつき、宰相殿はそれを信じて姫を即座に勘当した。
一寸法師の思惑通り姫と屋敷を出ていき、船に乗って京都を離れ、人気がない薄気味悪い島に着いた。そこで二人の鬼に出会い、鬼は一寸法師を飲み込むが、一寸法師は鬼の喉ちんこをつかみ、反動をつけて鼻に潜り込んだ。針で粘膜を突き刺すと鬼はあまりの痛さに大声を上げ、一寸法師は目から出てきた。恐れをなした鬼は降参し、宝や打ち出の小槌を置いて逃げていった。
「打ち出の小槌は何でも願いが叶う」と姫が教えてくれたので一寸法師は自分の体を大きくした。六尺(約182cm)ほどになった一寸法師に、姫は策略にはまったとも知らずにたちまち惚れてしまった。一寸法師は申し出を受け、打ち出の小槌で飯や金銀を打ち出して京へ上った。
五條あたりの宿で10日ほど滞在していると、一寸法師の噂は宮中にまで広まり、宮中に呼ばれた。大王(おおきみ)にお目通りをすると、大王は一寸法師を気に入って中納言の位を与えた。一寸法師はその後も小槌で金や銀を打ち出してお金持ちになる。子供も三人授かって末代まで繁栄していった。
最後は「住吉の御誓ひに末繁昌に栄たまふ。よのめでたきためし、これに過ぎたる事はあらじとぞ申し侍りける。」と結ばれている。
種貸社境内には「一寸法師からお水が出る手水舎」や「一寸法師のお椀の船」があります。
もっと詳しく
一寸法師は大国主命と共に国造りをした少名彦命(すくなひこのみこと)であるという説や、各地で伝わる民話や伝承に登場する小人も一寸法師であるなど諸説ある。
⑫御田
住吉大社には約1,800年の歴史がある御田(おんだ/おんた)と呼ばれる神田があります。
御田(おんだ/おんた)とは
神社などが所有する田んぼ。田植え、稲作、収穫の際に五穀豊穣などの祭事を行う。実った穀物は神様へのお供物とする目的がある。
神功皇后が住吉の地に住吉大神をお祀りした時に新田を設け、長門国(ながとのくに)から植女を呼んで御田を作らせたと伝わります。
長門国(ながとのくに)とは
現山口県下関一帯の旧国名。
毎年6月中旬には「五穀豊穣・家庭和楽・天下泰平」を祈願する御田植神事(おたうえしんじ)が行われます。
出典 住吉大社
御田植神事は鎌倉時代から続く神聖な神事で、1979年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
⑬住吉祭(夏祭り)
住吉祭(夏祭り/7月30日~8月1日)は住吉大神が住吉の地に鎮座した時代から執り行われてきた伝統的な神事で、大阪をはじめ国中のお祓い・お清めをする盛大な祭典です。
もっと詳しく
7月海の日夕刻に昔住吉浜だった住吉公園で行われる神輿洗神事(みこしあらいしんじ)から始まり、7月30日20時に宵宮祭(よいみやまつり)、7月31日17時に夏越祓神事(なごしはらえしんじ)・例大祭、8月1日午後に神輿渡御(みこしとぎょ)が行われる。
夏越祓神事は華麗に着飾った夏越女・稚児たちが茅の輪(ちのわ)をくぐる。五月殿で大祓式が行なわれた後、参詣者も行列に参加。茅(ちがや)を1本取り、祓いながら3度の茅の輪をくぐり本宮に進む。茅の輪をくぐる時は「住吉の夏越(なごし)の祓する人は千年(ちとせ)のよはひのぶといふなり」という和歌を口ずさむ。
見所の1つでもある8月1日の神輿渡御は、住吉大神の神霊を遷した神輿が行列を仕立て、御旅所である堺市の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)まで巡行します。
住吉大社(大阪市)と宿院頓宮(堺市)の間にある大和川で神輿をひいた巡行者が川の中を歩く姿は必見です。
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総勢1200名以上の巡行は夕刻宿院頓宮に到着し、本殿で神事「着輿祭(ちゃくよさい)」が執り行われる。その後、古儀に従い宿院頓宮の境内にある飯匙堀(いいがいぼり)で茅の輪をくぐり荒和大祓神事(あらにごのおおはらい)」が執り行われる。荒和大祓神事後は住吉大社に戻り、第一本宮で還輿祭(かんよさい)が行われ住吉祭の終わりを遂げる。例年ここまでで23時をまわる。参考 住吉大社
住吉祭は壮大なお祭りなので全日が見所ですが、運氣を上げるなら7月31日の夏越祓神事、もしくは8月1日に宿院頓宮で行われる茅の輪くぐりの儀式に参列するのがおすすめです。
茅の輪くぐりは全国各地で行われるお祓いの儀式で、茅の輪で使われる茅(ちがや)や葦(あし)には強力な霊威が宿ります。
住吉祭の茅の輪くぐりは住吉大神のご霊威「みそぎはらい」が最大に発揮されるので、マイナスを祓い運氣改善ができる最大のチャンスです。
住吉大社とは
住吉大社は大阪府大阪市住吉区住吉にある摂津国(せっつのくに)の一之宮です。約1800年の歴史がある神社で、全国約2300社以上ある住吉神社の総本宮になります。
摂津国(せっつのくに)とは
大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名。
神階の正一位(しょういちい)という社格が与えられていて、學生社発行の住吉大社の本によると、神社としてはきわめて早い時期に最高の扱いを受けていたとあります。
正一位を賜った時期は「津守氏古系図」によって、天暦六年(九五二)以前であることが察せられ、また嘉祥四年(八五一)正月二十七日の官符によって、この時か、もしくはそれ以前であったと思われる。これは他社とくらべてきわめて早い時期に神社としては最高の扱いをうけていたことを示すものである。出典 學生社 住吉大社
正一位(しょういちい)とは
日本の神階における位の1つで朝廷から神社の御祭神に授けた最も最上位の位階(等級)。神階は上位から正一位>従一位>正二位>従二位>正三位>従三位>正四位上>正四位下>従四位上>従四位下…と計30位階に分けられていた。
住吉大社は一之宮や正一位の社格以外にも延喜式名神大社(えんぎしきみょうじんたいしゃ)、
延喜式名神大社とは
日本の律令制下において名神祭(霊験あらたかな神社で行われる臨時祭)の対象となる神様を祀る神社の社格の1つ。その対象全てが大社であることから名神大社と呼ばれる。
延喜式は全50巻、約3300条からなる平安時代の律令の施行細則を集成した法典。905年(延喜5年)第60代天皇である醍醐天皇(だいごてんのう)の命により藤原時平(ふじわらのときひら)らが編纂(へんさん)を開始し、927年(延長5年)に完成した。施行されたのは967年(康保4年)から。
1039年(長暦3年)頃には二十二社(中七社)、
二十二社とは
平安時代中期以降に朝廷から格別の処遇を受けた非常に格式の高い神社。祈雨など国家の大事の際に朝廷より使いが派遣され、祈願が行われて特別視された。伊勢神宮や春日大社、伏見稲荷大社などは上七社、住吉大社や石上神宮、大神神社などは中七社、日吉大社や八坂神社、貴船神社などは下八社と、二十二社の中でも3段階に位が分けられている。
1946年(昭和21年)までは官幣大社(かんぺいたいしゃ)という社格も与えられています。
官幣大社とは
明治維新以降、平安時代の延喜式にならって新たに神社を等級化した近代社格制度の最上位の社格。
近代社格制度では延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にある官幣社(朝廷が運営)と国幣社(国司が運営)を大中小の3つに分けたほか、国家に貢献した人物を祀る神社のために別格官幣社も設置された。官幣社は国幣社よりも格上とされ、大中小の順に格が下がる。
社格の序列は「官幣大社>官幣中社>官幣小社>別格官幣社>国幣大社>国幣中社>国幣小社」とされているが、「官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社」という説もある。
今では旧官幣大社と記される。
なお、延喜式神名帳とは延喜式の巻9と巻10のこと。朝廷が重要視した全国の神社(官社/かんしゃ)の一覧。2861社の神社とそこに鎮座する3132座の神が記載されている。
航海や港の守護神で知られる住吉大社は遣唐使進発の地として知られ、地元の方からは「すみよっさん」の呼称で親しまれています。
初詣には毎年約250万人の参拝者が訪れるほど人気のある神社です。
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住吉大社は延喜式神名帳には住吉坐神社四座と記されるが、住吉大社の縁起「住吉大社神代記(すみよしたいしゃじんだいき)」には住吉大社や住吉大明神大社、住吉大神宮などとも記される。明治維新後は社号を住吉神社と定めたが、戦後1946年(昭和21年)に住吉大社神代記の記述にならい、住吉大社に改めて今に至る。
住吉大社神代記は古より住吉大社に伝わる全1巻719行の古典。巻末に記される731年(天平3年)が有力な成立年だと伝わる。主要部分は住吉大社の祭神の由来と鎮座が記されている住吉大神顕現次第になり、これに加えて神域・神宝・眷属神・各領地の境界や由来などが記されている。
平安時代末期~鎌倉時代初期にかけての公家である藤原定家(ふじわらのさだいえ)が記した1180~1235年までの日記「明月記(めいげつき)」には、住吉大社と四天王寺の間で領地問題が起きた際、住吉大社側が証拠資料として住吉大社神代記を提示したとある。
元来門外不出の秘中の書で社家の者でも拝観は許されなかったが、明治以降わずかながら内容が公開され、1954年(昭和29年)には国指定の重要文化財になった。
住吉大社の御祭神
住吉大社の御祭神はこちらです。
- 第一本宮…底筒男命(そこつつのおのみこと)
- 第二本宮…中筒男命(なかつつのおのみこと)
- 第三本宮…表筒男命(うわつつのおのみこと)
- 第四本宮…息長足姫命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)
底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱を総称して住吉三神・住吉大神と言い、息長足姫命(神功皇后)を含めた四柱を総称して住吉四社大明神(すみよしよんしゃだいみょうじん)と言います。
住吉三神 住吉大神 |
底筒男命・中筒男命・表筒男命の総称 |
住吉四社大明神 | 底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命の総称 |
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住吉大社神代記では次のように書かれていて、第一本宮と第三本宮の御祭神が現在とは逆になっている。
・御神殿四宮
・第一宮 表筒男
・第二宮 中筒男
・第三宮 底筒男
*現在は第一本宮が底筒男命で第三本宮が表筒男命
住吉大社神代記の中に東一大殿(東の第一神殿という意味)とあり、第一宮から第三宮の順番と位置は変わっていない。
なお、住吉三神は日本書紀と古事記の神代巻では「底・中・表」の順で、日本書紀の神功皇后紀の中では全て「表・中・底」の順で記されている。参考 學生社 住吉大社
住吉三神(すみよしさんしん)とは
住吉三神(すみよしさんしん)は神道で大事な「祓(はらえ)」を司る海の神様で浄化の御霊威があります。
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伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から戻り、筑紫(ちくし/つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)で禊をした時に三層構造の異なる海流から生まれた。
水底(地下水/海底)では底津少童命(そこつわたつみのみこと)の次に底筒男命(そこつつのおのみこと)。中底(海水)では中津少童命(なかつわたつみのみこと)の次に中筒男命(なかつつのおのみこと)。水面(潮の上の水/水面上/大気圏)では表津少童命(うわつわたつみのみこと)の次に表筒男命(うわつつのおのみこと)が現れた。少童命の三柱は少童三神(綿津見三神/わたつみさんしん)と呼ばれる。
日本書紀では底筒男命のことを底土命(そこつちのみこと)、中筒男命は赤土命(あかつちのみこと)、表筒男命は磐土命(いわつちのみこと)とも記されている。九州地方ではこの神名で祀られることが多い。
記紀から分かるように住吉三神は水の惑星と呼ばれる地球の3つの世界(海底・海水・大気圏)を象徴していることが考えられる。
住吉三神は奈良時代以前より航海安全の神、外交や貿易、あらゆる産業を守護する神として、朝廷をはじめとして多くの民衆から称えられました。
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摂津国住之江を治める有力氏族 津守氏(つもりうじ)の海上交通安全を守る氏神でもある。墨江之三前大神(すみのえのみまえのおおかみ)とも呼ばれる。津守氏は後の住吉大社宮司を務める。
航海安全などの御神徳がある神様ですが、神のお告げ(託宣)を伺う神託(しんたく)を司る神様でもあります。
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住吉三神は第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の熊襲討伐(くまそとうばつ)の際、神功皇后(じんぐうこうごう)にお告げをした神様。神功皇后の新羅(しらぎ)遠征でも神託や守護、先導などに深く関わり国家繁栄へと導いた。新羅は古代朝鮮半島南東部にあった国。
住吉大社神代記や伊勢物語には和歌による神託もあったとあり、平安時代からは和歌・文学の神としても崇敬され、近世では松尾芭蕉や井原西鶴もお詣りしています。
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住吉三神は草を敷かずに苗代をつくる方法を教え、農耕を発展させた伝説がある。農耕の神・産業の神としても崇められる。
摂津国の歴史書である摂津国風土記(せっつくにふどき)や、現兵庫県南西部(姫路市辺)の旧国の歴史書である播磨国風土記(はりまのくにふどき)には、現実に姿を現す「現人神(あらひとがみ)」と記されていることから住吉明神とも呼ばれます。
現人神の信仰は万葉集にも登場しています。
大君の 命(みこと)恐(かしこ)み さし竝(なら)ぶ 國に出でますや わが背の君を かけまくも ゆゆし恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)き給ひ 著(つ)き給はむ 島の崎崎(さきざき) 依り給はむ 磯の崎崎 荒き波 風にあはせず 草づつみ 疾(やまひ)あらせず 急(すむや)けく 還し給はね 本の國邊(くにべ)に
万葉集 一〇二〇・一〇二一
その姿は白髭をはやした老翁で、現在でも社蔵に老翁の姿をした住吉大神神影が奉安されています。
白髭をはやした老翁から連想される塩椎神(しおつちのかみ)と住吉大神は同神とされています。
塩椎神(しおつちのかみ)とは
塩椎神は海幸彦山幸彦の神話の中で、海幸彦の釣針を海に落として困っている山幸彦を海神の宮に行くことをすすめた神様であり、神武天皇に東に美しい地があると言って東征を決意させた神様でもある。古事記では塩椎神、日本書紀では塩土老翁・塩筒老翁(しおつちのおじ)。
「學生社 住吉大社」では次のように書かれていて、
鈴木重胤は住吉大神と塩土老翁は全く同一神であろうと説いている(『日本書紀伝』)が、海幸山幸神話そのものが、先述の通り住吉大神の顕現と大いに関係があり、しかも「塩筒」とも記すのであるから、<塩ツツの老翁>は<(底・中・表)ツツの男の命>と語幹をひとしくし、同じ神格、ないし実体を有する神とみてよい。したがって、住吉大神(筒男命)が現形せられた神を塩筒老翁(塩土老翁)として語られているものと考えられる。
出典 學生社 住吉大社
鈴木重胤(すずきしげたね)とは
江戸時代後期の皇学者。
住吉の奥の院とも呼ばれる大阪府堺市にある開口神社(あぐちじんじゃ)には、住吉三神を1つにして神徳を現した神として塩土老翁神が祀られています。
開口神社(あぐちじんじゃ)とは
神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁の御魂をお祀りせよとの詔により創建された神社。
また、約2,500年前の古代の祭祀場が残っている日本最古の聖域である籠神社(このじんじゃ)の奥宮真名井神社(まないじんじゃ)の磐座奥座には盬土老翁(しおつちのおじ)が祀られていて、社伝によると大綿津見神(おおわたつみのかみ)・豊受大神・住吉神と同神となっています。
ちなみに、筒男命(住吉三神)の御神名の筒(つつ)の意味にはオリオン座の三つ星であるという説や、
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古くから「夕星(ゆうづつ)=西の空に見える金星・宵の明星」のような星のことを「つつ/づつ」と言い、筒男命の筒はオリオン座中央の三つ星の唐鋤星(からすきぼし)を表していると言われている。
オリオン座の三つ星は赤道上にあり、冬は真東から縦一列で水平線より昇り、春には真西の水平線に横一列で沈む特徴から、古来より航海の大事な指標(目印)とされていた。古代人は航海安全を左右するオリオン座の三つ星と住吉大社の祭神「底筒男命・中筒男命・表筒男命」を同一視し、船を導く航海の守護神とする信仰があった。
船の帆柱を立てる筒関(つつぜき)から取ったとされる説などがあります。
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筒関とは船の帆柱を立てる筒状の受け材を取り付ける場所のこと。船体中の最重要箇所。
神功皇后の新羅遠征(しらぎえんせい)の時、船の筒関(つつぜき)に住吉三神の御魂を祀ったことから筒男命となったと言われている。住吉三神は「その国(新羅)を求めるならば、天津神、国津神、山や川、海の神にことごとく御幣を奉り、我が御魂を船に坐(ま)せて渡るがよい。」と神功皇后に託宣をし、加護を約束したと伝わる。
古来より船体の筒関や船には神様の御魂を安置する信仰があり、今でも伊勢神宮などで行われる式年遷宮の際には船形の器・御船代(みふなしろ)に神様の御神体を納めて新しい正殿に奉納する形式で行われている。
「學生社 住吉大社」には次のような説が紹介されています。
(イ)『釈日本紀』には、ツツノヲの三神について、"所由あるに似たり"としながら、結局、意味不明としている。
(ロ)垂加流の神道では、"筒は土なり、敬なり、敬もつて清明の験を得、故に筒男命という"としている。
(ハ)『古事記伝』では、ツツはツチと同じとし、ツツノヲはツ(助詞の之)・チ(尊称)・ノ(助詞の之)・ヲ(尊称)であろうとしている。
(ニ)鈴木重胤の『祝詞講義』では、"筒は伝(つたう)なり、伝とは海の底と中と上とを持ち分けて、その御霊の至り及ばせ給わぬ隈(くま)無き事なり"といい、海路を主宰したもう神としている。
(ホ)岡吉胤氏の『徴古新論』には、"筒は津路の義にて、海路を司り給へる神なるべし"という。
(ヘ)吉田東伍博士の『倒叙日本史』では、ツツはゆふづつ(即ち金星)の"つつ"、星の義としている。
(ト)山田孝雄博士は、ツ(助詞の之)・ツノヲ(津之男)と解し、底ツツノヲの命についていえば、底の津之男ということであり、津之男とは津を司る長神(おさがみ)の意としている。
(チ)岡田米夫氏は、船の帆柱を立てる底部の柱の穴の箇所を筒穴とよび、底に船霊を安置するところから、船霊と筒の関係で"つつ"の信仰が生まれたと解している。いずれも興味ある説であるが、田中卓博士は、これらの所説には従いがたいとして"ツツノヲ"は"ツツの男"であり、その"ツツ"は、対馬の南端、いまは厳原町の内に属する豆酘(つつ)の地であろう、という新見解を示されている。
出典 學生社 住吉大社
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は朝鮮半島に遠征し、見事勝利へと導いた武神であり、第15代応神天皇(おうじんてんのう)となる品陀和気命(ほむだわけのみこと)を生んだ聖母神でもあります。
開運招福や安産、子育て守護の御神徳をお持ちです。
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息長足姫命は第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妃である神功皇后(じんぐうこうごう)。神仏習合の時代は聖母大菩薩(せいぼだいぼさつ)とも呼ばれていた。
仲哀天皇の熊襲討伐の際、住吉三神から神託を受けたのが息長足姫命(神功皇后)です。
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仲哀天皇は九州の熊襲(くまそ)を討伐するため、神功皇后に神がかりをさせて神託を得ることにした。仲哀天皇は琴を弾き、建内宿禰(たけのうちのすくね)は御神託を授かるために待機していると神功皇后が神がかり、
「西の方に国がある。金銀をはじめとして、目もくらむような種々の珍しい宝物がたくさんある。その国をそなたのものにしてあげよう。」
と神の言葉を発した。それを聞いた仲哀天皇は「高い所に登って西を見たけど国土は見えず、ただ大海原があるだけだ。」と言い、嘘を付く神だと思って琴を弾くのをやめてしまった。
神はひどく怒って「熊襲の天下は汝が統治すべき国ではない。汝はどこか一道に向かえ。」と言ったので、建内宿禰は仲哀天皇に琴を弾き続けるように勧めた。仲哀天皇は渋々琴を弾き始めたが、しばらくすると琴の音が聞こえなくなった。灯りをつけると天皇は亡くなっていた。
仲哀天皇の亡き後は息長足姫命(神功皇后)が軍を主導して新羅を平定しました。これが武神と崇められる理由です。
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仲哀天皇が亡くなった後、再度神がかりをして住吉三神の御魂を船に坐せれば加護を得られること、新羅を治めるのは神功皇后の御子であるという神託を授かった。神功皇后は神託を受けた神に名を問うと「これは天照大神(あまてらすおおかみ)の御意思である。また住吉三神である。」と答えた。
神託に従った神功皇后は住吉三神の加護を得て、建内宿禰と共に軍を率いて九州北西部に広がる海域の玄界灘(げんかいなだ)を渡った。大小の魚たちが集まって船を運び、さらには突然強い神風が吹いてその勢いで新羅へと進軍した。
大波を立てて上陸する様子を見た新羅は戦わずして降伏し、高句麗(こうくり)と百済(くだら/ひゃくさい)の国も無事に平定。これが新羅遠征。三韓遠征(さんかんえんせい)とも言われる。三韓を治めた神功皇后は新羅の国王の門に杖を突き立て、三韓の国の守護神として住吉三神の御魂を祀った。
なお、高句麗は朝鮮半島の大部分を支配していた国で、百済は新羅の隣、朝鮮半島南西部にあった国のこと。
新羅遠征後、凱旋した筑紫国(つくしのくに/現福岡県)で生まれたのが品陀和気命(第15代応神天皇)です。
息長足姫命(神功皇后)の出産には「妊娠から出産まで15ヶ月間かかった」という鎮懐石(ちんかいせき)伝説があります。これは息長足姫命が持っている神の力を示し、生まれてくる子は神の子であることを暗示しています。
鎮懐石伝説とは
新羅遠征の際、神功皇后(息長足姫命)は子を身ごもっていて臨月を迎えていたが、腹部に卵形の2つの石を巻き、新羅を治めるまで出産を遅らせることを願った。遠征で成果をあげて筑紫国に戻った後、品陀和気命を生んだ。
腹部に巻いた鎮めの石は「鎮懐石(ちんかいせき)・皇子産石(みこうみいし)」の名で福岡県糸島市にある鎮懐石八幡宮に奉安されている。
天皇の座を奪い取ろうとした品陀和気命の異母兄にあたる香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱を治めて凱旋帰国した後は、応神天皇の摂政(せっしょう)を約70年間務めました。
摂政(せっしょう)とは
君主が幼少、病弱、女帝などの理由で政務を執り行うことができない場合に、君主の代わりに政務を行うこと。またはその役職。
住吉大社の歴史
211年(神功皇后摂政11年)住吉三神の神託により新羅国を無事に平定した神功皇后が凱旋中だった摂津国住吉の地に住吉三神を祀ったのが住吉大社の起源です。
758年(天平宝字2年)には住吉大神のお告げにより、本宮と大海神社の間にある住吉文華館辺りに住吉神宮寺が建てられました。(別名 新羅寺)
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奈良時代以降、神道と仏教が融合して1つの信仰体系となった神仏習合の思想があった。住吉大社では次の仏や菩薩が神様の仮の姿として現れたものとされた。
・第一本宮…薬師如来(やくしにょらい)
・第二本宮…阿弥陀如来(あみだにょらい)
・第三本宮…大日如来(だいにちにょらい)
・第四本宮…聖観音(しょうかんのん)
かつては住吉神宮寺をはじめとして伽藍(本堂・東堂・西堂・護摩堂など)が数多くあったが、明治維新の神仏分離により廃寺となった。護摩堂のみ残され、現在は招魂社(しょうこんしゃ)の社殿に転用されている。なお、住吉文華館の東側には住吉神宮寺跡の石碑が建っている。
鎌倉時代(1185年頃~1333年)には武家からも崇敬され、1195年(建久6年)に源頼朝が奉幣使(ほうべいし)を遣わせて神馬が奉納されています。
奉幣使(ほうべいし)とは
天皇など位の高い方の命により神社に幣帛(へいはく)を奉献する使者。幣帛とは神前の供物のこと。
第97代後村上天皇は1360年(正平15年)から8年間あまり行幸を行い、住吉大社を一時的な宮殿としました。その後、第98代長慶天皇は住吉の地で即位しています。
1576年(天正4年)織田信長が大阪の顕如(けんにょ)を攻めた時、本願寺の兵の放火によって住吉大社の社殿は全焼しましたが、本殿3棟は真言宗の僧侶たちの協力によって1595年までの約20年の間に造営されました。
顕如(けんにょ)とは
浄土真宗の僧で本願寺派第11世宗主。本願寺光佐とも呼ばれる。
戦国時代(15世紀末から16世紀末頃)には凶悪な賊などによって神殿や末社、住吉神宮寺が度々放火されていますが、歴代の将軍たちの支援によって幾度も再興されてきました。
江戸時代には江戸幕府からも厚く崇敬されていたので、1614年(慶長19年)に征夷大将軍である徳川家康から禁制(きんぜい)を得て、何度も造営が行われました。
禁制(きんぜい)とは
戦乱による被害を避けるため、武将や戦国大名に保護を求める制度。
1873年(明治6年)神仏分離により住吉神宮寺などの寺院は廃寺となり、建物から秘仏の大部分が失われました。
ちなみに、住吉大社では伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮が古より行われてきています。
香取神宮や鹿島神宮と共に20年に一度行われてきたことが、平安時代初期に編纂された歴史書「日本後紀(にほんこうき)」に記録されています。
『日本後紀』弘仁3年6月辛卯(5日)条(812)
神祇官言。住吉香取鹿島三神社。隔二廿箇年一。一皆改作。積習為レ常。其弊不レ少。今須下除二正殿一外。随レ破修理上。永為二恒例一。許レ之。
出典 神社資料データベース
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「住吉、香取、鹿島の三社は二十年ごとに皆改め作るのが積習になっているが、弊害が少なくないので、今後は正殿を除き破損に随って(したがって)修理することを恒例とする。」と記録されている。正殿は20年に一度遷宮が行われてきたことがわかる。
初めて遷宮が行われたのは記録上では奈良時代の749年となっていて、室町時代の1434年(永享6年)までは20年に一度の遷宮が厳重に守られ、行われてきたことが様々な古文書の記録で明確になっています。
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興福寺の僧侶により書き継がれてきた興福寺略年代記に「天平勝宝元年造住吉社(749年に造替)」と記されているのが初見。
次に残る記録は929年(延長6年)。180年間空白があるが奈良時代には式年遷宮を行う習わしがあったので、興福寺略年代記の記録を第1回目だと定めると、180年の間に10回は遷宮が行われていたのがわかる。
その次に残る記録は平安時代に編纂された歴史書の日本紀略(にほんきりゃく)。「長和3年 中略 今年住吉社遷宮」と記されている。749年の遷宮から年数を辿ると1014年(長和3年)までに14回行われている。
戦乱の多い戦国時代以降は造営や修理は行われていましたが、20年に一度の遷宮は困難となり、数十年(年数はまばら)に一度の遷宮となっています。
明治時代から近代における遷宮も20年に一度ではありませんが、4つの本殿は様々な年に遷宮されています。
直近の遷宮は2011年(平成23年)です。御鎮座1800年記念大祭に合わせ、社殿の塗替や建造物の修繕を行う「第49回式年遷宮」が斎行されて今に至ります。
住吉大社のおすすめの順路と参拝方法
住吉大社のおすすめの順路と参拝方法を住吉大社の境内マップを活用しながらお伝えしていきます。
こちら↓の住吉大社境内略図も参考にしてみてください。
出典 平成三十一年住吉暦
①大鳥居をくぐる
住吉大社の西側にある大鳥居をくぐります。住吉大社駅から行く場合は、駅を出て左を見るとすぐに大鳥居が見えます。
大鳥居の前には住吉大社を護る狛犬がいます。右側が口を開けている阿像(あぞう)、左側が口を閉じている吽像(うんぞう)です。
ちなみに、住吉大社にある約600基の石燈籠は江戸時代から明治時代に多かった廻船問屋(かいせんどいや)を中心とした運送業や漁業の関係者や全国の各種業者から奉納されたものになります。
廻船問屋(かいせんどいや/かいせんどんや)とは
船で積荷を運送する業者のこと。
②太鼓橋を渡る
大鳥居を真っ直ぐ進んだ先にある太鼓橋(反橋)を渡ります。
真冬の寒い時期は凍結の危険があるので閉鎖されますが、それ以外は基本的に渡ることができます。
太鼓橋がかかっている神池には亀が住んでいます。暖かい時期は割と姿を見ることができるので神池もぜひのぞいてみてください。
石の上に登って日向ぼっこしている姿や、泳いでいる姿を見ることができます。
ただ、数年前まではたくさん住んでいましたが、最近は数が減ってしまった気がします。
③手水舎で身を浄める
太鼓橋を渡って左手にある手水舎で身を清めます。
住吉大社の神様の使いであるうさぎの口からお水が出ています。
④船玉神社で参拝
手水舎の正面には鳥居があって本殿が見えますが、まだ本殿には向かいません。手水舎から右側に進んだ先にある摂社の船玉神社(ふなたまじんじゃ)で参拝します。
住吉三神は海の神様です。
まずは船玉神社で参拝し、天鳥船命のお力で天鳥船という船に乗り、猿田彦神のお力で迷うことなく最善の道へ進めるよう道案内をお願いすることが重要です。
船玉とは航海・空路の安全や豊漁を司る船霊様(ふなだまさま)のことです。
船霊様は船舶の守護神(船舶そのものの神霊)になり、船乗りの漁業者をはじめ航空関係者などから崇敬されていますが、住吉大神と表裏一体の関係にもなるので住吉大神の荒魂(あらみたま)とされることもあります。
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古来から船の帆柱を立てる底部にある筒穴に船霊様を納めていて、筒男命の御神名の筒は船霊様との関係からきているという説があり、船霊様と住吉大神は表裏一体の関係をもつといわれている。
荒御魂(あらみたま)とは御生(みあれ)されたばかりの御神霊のこと。魂が若々しく荒々しい力を司る。
船玉神社の御祭神は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)と猿田彦神(さるたひこのかみ)です。
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天鳥船命は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が神産みをした時に生まれた神。出雲の国譲りでは高天原の使者として建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と共に出雲国の稲佐の浜へ降り立った。
猿田彦神は天孫降臨の際、天の八衢(あまのやちまた)にいて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂へと先導した神。最善の道に導いてくれることから、道開大神(みちひらきおおかみ)とも言う。
ちなみに、船玉神社の扉絵には日本古来の菱垣船や帆走船、二機の飛行機が描かれています。
出典 住吉大社
船玉神社では次のように参拝するのがおすすめです。
- 二拝して自分の生年月日と名前、住所を言う
- 祓詞(はらえことば)を2回唱える
- 船玉祓(ふなたまのはらい)を1回唱える
- 二拝二拍手一拝
1つずつ詳しく見ていきましょう。
なお、住吉大社は多くの参拝客がいらっしゃいます。祝詞の奏上は時間がかかるので、他の方のご迷惑にならないよう端によって唱えるようにしてください。「目の前で唱えないと意味がない」などはありませんので、端によって唱える形で大丈夫です。
⑴二拝して自分の生年月日と名前、住所を言う
まずはお賽銭を入れて二拝してから「私は1980年1月1日生まれの山田太郎です。東京都江戸川区〇〇1-1-1に住んでいます。」と自己紹介します。
初めて人と会った時も自己紹介するように、神様にもきちんと自己紹介することが大切です。声に出しても良いですし、心の中で言っても大丈夫です。
お賽銭は100円玉がおすすめです。
⑵祓詞(はらえことば)を2回唱える
祓詞を2回唱えます。祓詞を唱えると、祓戸の神々の御神力により様々な災難や罪穢れを祓うことができ、神様の前にいるにふさわしい清らかな状態になることができます。
こちらも声に出しても良いですし、心の中で唱えても大丈夫ですが、抑揚をつけずゆっくりと読むのがポイントです。
抑揚とは
文章の調子を上げたり下げたり、また強めたり弱めたりすること。イントネーション。
⑶船玉祓(ふなたまのはらい)を1回唱える
船玉祓を1回唱えます。船玉祓はその名の通り船玉社で唱える祝詞です。
天鳥船命と猿田彦神にますますのお力添えを頂くために唱えましょう。
こちらも声に出さず、心の中で唱える形で大丈夫です。ポイントは祓詞と同様、抑揚をつけずゆっくりと読むことです。
⑷二拝二拍手一拝
二拝二拍手の後、神恩感謝と3回声に出して唱えるか、心の中で唱えます。神恩感謝は神様の生成発展を願うお祈りです。その後、一拝します。これで船玉神社の参拝は完了です。
⑤市戎大国社で参拝
船玉神社の右手にある末社の市戎大国社(いちえびすだいこくしゃ)で参拝します。市戎大国社は2社並んでいて、右側が大国社で左側が市戎社です。
大国社の御祭神は出雲大社の御祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
縁結びの神として知られていますが、大国主命の縁結びは男女の縁だけでなく、金運や仕事運、健康運、出世運などあらゆる縁を結んでくれます。
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目には見えない世界のむすびの御霊力を司り、神事(かみごと)の世界や幽世(かくりよ)の世界を治める神。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神。
幽世とは永久に変わらない神域。目には見えない死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる世界。
大国主命は打ち出の小槌を持ち、大きな袋を担ぎ、米俵に乗った姿が特徴的な七福神のだいこく様でもあります。五穀豊穣や商売繁盛など福の神としても御神徳もお持ちです。
市戎社の御祭神は海神である事代主命(ことしろぬしのみこと)です。豊漁の御神徳があります。
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大国社に祀られている大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子神。出雲の国譲りで高天原の使者として建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と天鳥船命(あまのとりふねのみこと)が出雲国の稲佐の浜へ降り立った際、大国主命が国譲りについて意見を求めたのが事代主命。
事代主命は右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿で知られる七福神のえびす様でもあります。商売繁盛や五穀豊穣の御神徳もお持ちです。
えびす様は好物である海老で鯛を釣り上げることが得意で、わずかな労力で大きな利益を得る「海老で鯛を釣る」のことわざの基にもなっています。
そしてその通りのご利益、簡単にいうと他力本願的なご利益を頂くことができます。
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住吉大社のえびす神は歴史が古く、鎌倉時代にはすでに江比須社として存在していた。今では住吉の「えべっさん」として厚く信仰されている。
ちなみに、市戎大国社を正面にした右手には約1800年の歴史がある御田が見えます。
⑥幸寿門をくぐる
手水舎の方へ戻り、太鼓橋の正面にある幸寿門(こうじゅもん)をくぐって境内に入ります。
⑦本宮で参拝
出典 住吉大社
幸寿門をくぐると第一本宮から第四本宮まで4つの社殿が並んでいるので、「第四本宮→第三本宮→第二本宮→第一本宮」の順で参拝していきます。
第四本宮は幸寿門をくぐった右手に、第三本宮は第四本宮の左手、第二本宮は第三本宮の奥、第一本宮は第二本宮の奥にあります。
それぞれの御祭神はこちらです。
- 第一本宮…底筒男命(そこつつのおのみこと)
- 第二本宮…中筒男命(なかつつのおのみこと)
- 第三本宮…表筒男命(うわつつのおのみこと)
- 第四本宮…息長足姫命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)
⑧伊勢遥拝所で参拝
第一本宮の左側にある門を通ったすぐ目の前に伊勢遥拝所(いせようはいじょ)があります。
伊勢遥拝所で参拝すると伊勢神宮に参拝したのと同じことになります。
遥拝(ようはい)とは
遠く離れた所からおがむこと。
伊勢遥拝所には直径10cmほどの不思議な穴が開いていて、正面から見るとまるで鏡のようでもあります。
伊勢遥拝所の左には、2階建ての土蔵造(どぞうつくり)で建てられた住吉御文庫(すみよしおぶんこ)があります。建立は1732年(享保8年)で大阪最古の図書館として知られています。
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大坂・京都・江戸の書林らが発起人となって建立された。以来毎年初刷本を奉納し、50,000冊にのぼる蔵書があり、珍本・希少本も多数収蔵されている。
なお、書林とは多くの書物がある場所のこと。
⑨種貸社で参拝
種貸社(たねかししゃ)は伊勢遥拝所の左手にある住吉御文庫の左の道を進んだ先にあります。
種貸社の御祭神は稲に宿る神秘的な精霊を神格化した神である倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。稲荷神として信仰されていて、資金調達・子宝・知恵の御神徳をお持ちです。
倉稲魂命は元種(願いの種)を授ける神様なので子宝祈願に訪れる方も多く、種貸社には子供を授かった方が奉納した種貸人形(たねかしにんぎょう)がたくさんあります。
ちなみに、種貸神社の元は延喜式神名帳に記されている式内社「多米神社(ためじんじゃ)」になります。
苗見社(なえみのやしろ)、種貸明神、種貸宮(たねかしのみや)とも言われて崇敬されていましたが、天正慶長の頃(1573~1615年)兵火にかかって社殿神宝などを焼失したため、1655年(明暦元年)の住吉大社造営の際に現在地に遷座再建しました。
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多米神社は古来より宇迦之御魂神を祀り、衣食の神、子宝の神として厚く崇敬されてきた神社。天日鷲命(あめのひわしのみこと)の子孫であり、多米神社あたりの氏族である多米連(ためむらじ)の創建。
多米連の姓は宮中の食糧を司る大炊寮(おおいづかさ)に仕えていた際、成務天皇の御世に良い御供米であると称えられて賜った。
なお、天日鷲命は天照大御神が天岩戸(あめのいわと)に身を隠した時、弦楽器を奏でた神。天日鷲命が弦楽器を奏でると弦の先に鷲(わし)が止まった。
現在の住吉区長居に多米神社の跡地がありますが、住吉大社から徒歩約23分かかります。
なお、種貸社の境内右手には興台産霊神(こごとむすびのかみ)を祀る児安社(こやすしゃ)や、鵜茅葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀る海士子社(あまごしゃ)もあります。
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興台産霊神(こごとむすびのかみ)は祝詞(のりと)や祭祀(さいし)を司る神である天児屋命(あめのこやねのみこと)の父神。天児屋命は奈良県春日大社の御祭神。
鵜茅葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)は海幸彦山幸彦の神話に出てくる山幸彦が海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)と結婚して生まれた神。神武天皇の父神で農業の神。
⑩楠珺社で参拝
楠珺社(なんくんしゃ)は種貸社を出て左に進み、そのまま道なりに進むとあります。
楠珺社の御祭神は稲荷神の宇迦魂命 (うがのみたまのみこと)です。商売発達・家内安全のご利益があり、毎月の初辰まいりの日は多くの方で賑わっています。
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古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、日本書紀では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。
樹齢1,000年を超える楠が御神木です。
江戸時代より人々はこの楠の神秘的な霊力に祈りを捧げ、根元に設けられた祠に神様を祀るようになったと言われています。楠の木霊(こだま)を称えて楠珺社となったそうです。
楠珺社の社殿前には大きな夫婦楠(めおとくす)もあります。樹高約20m、幹周約8mもある樹齢約800年の御神木です。(大阪市保存樹)
なお、楠珺社の右手(西側)には南北に並んで建てられている2棟の高蔵(たかくら)があります。
この北高蔵と南高蔵は桃山時代の1607年(慶長12年)の建造で、国の重要文化財に指定されている貴重な蔵です。
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大阪府内の指定文化財の中で最も古い蔵。板校倉造(いたあぜくらづくり)の高床式倉庫で、一本も釘が使われていないので釘無宝庫(くぎなしほうこ)ともいう。津守家盛記には高蔵4棟の造営とあるが現存しているのは2棟。明治以後、境内の整備で数度移築されていて、現在地に移されたのは1970年(昭和45年)のこと。かつては宝庫として神宝が収められていたが、住吉文華館ができたことにより神宝が移され、現在は祭具の収蔵庫として使用されている。
⑪五所御前で参拝
五所御前は楠珺社の裏手に周り、右に進むとあります。
五所御前は住吉大神が降臨した神聖な場所です。五所御前にある鳥居をくぐって参拝したら、その後「五・大・力」の石を頂きましょう。
⑫浅澤社
五所御前から石舞台の方へ行き、住吉武道館の入り口付近にある鳥居をくぐって敷地の外に出ます。10秒ほど歩くと末社の浅澤社(あさざわしゃ)があります。
浅澤社の御祭神は住吉大社の弁天さんである市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。芸能や美容のご利益があります。
住吉大社では女性の守護神として知られていて、女性が住吉大社に参拝する時は必ず浅澤社にお参りをする習わしが昔からあるそうです。
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市杵島姫命は水の神・海の神で財運と学芸芸能の御神徳がある。七福神の弁財天としても知られる。
古くから浅澤社一帯は浅澤小野(あさざわおの)と呼ばれる浅澤沼で、杜若(かきつばた)が群生する名所として万葉集にも登場しています。
住吉(すみのえ)の淺澤小野(をの)のかきつばた衣(きぬ)にすりつけ著(き)む日知らずも
万葉集 一三六一
5月の最盛期にはキレイな紫色をした杜若が満開になります。
⑬大歳社で参拝
浅澤社のすぐ右手にあるのが大歳社(おおとししゃ)です。
大歳社の御祭神は豊作の守護神である大歳神(おおとしのかみ)で、集金満足・商売繁盛・心願成就のご利益があります。
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大歳神は年の変わり目にやってくる来訪神で、家に大歳神がやってくるとその家は繁栄する。お正月に飾る門松や鏡餅などのお供物や多くのお正月の行事はもともと大歳神を迎えるためのものになる。歳徳神(としとくじん)やお正月様、恵方神、年神とも呼ばれる。
歳徳神は方位学にも取り入れられていて、一年中の方徳を司る神である歳徳神がいる方角を恵方と言う。
大歳社の右手には龍神を祀っているとされる「おいとしぼし社」もあります。
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おいとしぼし社の起源は不明。地元の古老の伝承によると、天から落下した隕石を願い事の守護神として銀杏の巨樹の元に神秘の祠として祀ったのが起源だと伝わる。おいとしぼし社の神様は「お愛しい星」または「老年星(おいとしほし)」とも言われ、龍神や金龍として古くより親しまれている。
おいとしぼし社のお社の前には願い事を占う「おもかる石」があります。
⑭御守授与所に立ち寄る
お守りや御朱印を頂くために来た道を戻って御守授与所に立ち寄ります。御守授与所は第三本宮の左手にあります。
⑮大海神社へ向かう
お守りや御朱印を頂いたら幸寿門・幸福門・幸禄門のいずれかをくぐって太鼓橋を渡り、大鳥居を出て右に向かって進みます。
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住吉大社の参拝が初めての時は幸寿門、2回目の参拝の時は幸福門、3回目の参拝の時は幸禄門をくぐって境内から出るのがおすすめ。
3回も訪れることが難しい場合はこのタイミングで「幸福門をくぐる→再度幸福門をくぐって境内に戻る→幸禄門の方に向かう→幸禄門をくぐって境内から出る」の順番で両方の門をくぐり、太鼓橋を渡って大鳥居から出る。
右手に吉祥殿が見えたら吉祥殿左脇の道を進み、NTT住吉ビルを右に曲がると大海神社の鳥居と狛犬が見えてきます。
大海神社へは大鳥居から徒歩5分程度で着きます。
なお、大海神社は境内(種貸社の左)から行くことができますが、住吉大社の大鳥居をくぐって出ること、そして大海神社の鳥居をくぐって大海神社の境内に入るために一度敷地の外に出てから向かいましょう。
⑯大海神社で参拝
大海神社の御祭神は海神である豊玉彦命 (とよたまひこのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。
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豊玉彦命は伊邪那岐命と伊邪那美命が神産みをした時に生まれた最初の海神。古事記では綿津見神(わたつみのかみ)や大綿津見神(おおわたつみのかみ)、日本書紀では少童命(わたつみのみこと)や海神(わたつみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)と記される。海幸彦山幸彦の神話では塩椎神にすすめられて綿津見神宮(わたつみのかみのみや)にやってきた山幸彦を助けた綿津見神宮の龍王。
豊玉姫命は豊玉彦命の娘。海幸彦山幸彦の神話では綿津見神宮にやってきた山幸彦と結婚する。
境内右手にある玉の井と呼ばれる井戸(手水舎)で身を清めることができるので、参拝前にこちらで手水を使いましょう。
玉の井とは
海幸彦山幸彦の神話に登場する潮満珠が沈められていると伝わる井戸。もう片方の潮干珠は堺市ある宿院頓宮の飯匙堀という堀に沈められている。
大海神社は住吉大社の摂社の中でも最も社格が高い神社です。「住吉の別宮」「住吉の宗社」と古代の祭祀で重要視されてきました。
本殿は住吉大社の第一本宮〜第四本宮と同じ住吉造りで、重要文化財に指定されています。
大海神社では次のように参拝するのがおすすめです。
- 二拝して自分の生年月日と名前、住所を言う
- 祓詞(はらえことば)を2回唱える
- 龍神祝詞(りゅうじんのりと)を1回唱える
- 二拝二拍手一拝
船玉神社で参拝する時と唱える祝詞が異なるだけですが、1つずつ詳しく見ていきましょう。
なお、祝詞の奏上は時間がかかるので、他の方のご迷惑にならないよう端によって唱えるようにしてください。「目の前で唱えないと意味がない」などはありませんので、端によって唱える形で大丈夫です。
⑴二拝して自分の生年月日と名前、住所を言う
まずはお賽銭を入れて二拝してから「私は1980年1月1日生まれの山田太郎です。東京都江戸川区〇〇1-1-1に住んでいます。」と自己紹介します。
声に出しても良いですし、心の中で言っても大丈夫です。お賽銭は100円玉がおすすめです。
⑵祓詞(はらえことば)を2回唱える
神様の前にいるにふさわしい清らかな状態になるために祓詞を2回唱えます。
声に出しても良いですし、心の中で唱えても大丈夫ですが、抑揚をつけずゆっくりと読むのがポイントです。
⑶龍神祝詞(りゅうじんのりと)を1回唱える
龍神祝詞を1回唱えます。龍神祝詞は龍神様とご縁を結び、願い事を成就させたい方におすすめの祝詞です。
こちらも声に出さず、心の中で唱える形で大丈夫です。ポイントは祓詞と同様、抑揚をつけずゆっくりと読むことです。
⑷二拝二拍手一拝
二拝二拍手の後、神恩感謝と3回声に出して唱えるか、心の中で唱えます。神恩感謝は神様の生成発展を願うお祈りです。その後、一拝します。
大海神社で参拝したら右横にある志賀神社でも参拝します。
志賀神社には住吉三神と共に現れた綿津見三神(わたつみさんしん)が祀られています。
綿津見三神(わたつみさんしん)とは
底津少童命(そこつわたつみのみこと)・中津少童命(なかつわたつみのみこと)・表津少童命(うわつわたつみのみこと)のこと。住吉大神と同神ともいわれる。
志賀神社では二拝二拍手一拝の作法で参拝してください。
大海神社の鳥居をくぐって境内から出たら住吉大社の参拝は完了です。
その他の摂社末社・名所旧跡
住吉大社にはご紹介した他にも摂社末社・名所旧跡があるので、お時間が許す方はぜひ巡ってみてください。
①龍社
龍社(たつしゃ)は海幸彦山幸彦伝説に登場する龍宮の神井(神様が飲むと言われる井戸)の聖跡に建てられたものだと伝わり、元々は御井殿社(みいどのしゃ)と呼ばれていた末社です。
御祭神は水を司る水波野女神(みづはのめのかみ)で、祈雨や止雨、商売繁盛などの御神徳をお持ちです。
もっと詳しく
和久産巣日神(わくむすびのかみ)と共に伊射奈美大神(いざなみのおおかみ)の尿から生まれた神。肥料の神様でもある。
龍社裏にはノーベル文学賞を受賞した小説家・文芸評論家である川端康成(かわばたやすなり)が母親と反橋をモチーフにして詠んだ文学碑が建っています。
反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。
龍社は船玉神社の近くにあります。
②誕生石
誕生石は丹後局(たんごのつぼね)が島津氏の始祖である島津忠久(しまづただひさ)を出産したと伝わる場所です。柵には薩摩藩主島津家の家紋が刻まれています。
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丹後局は源頼朝の乳母の1人である比企尼(ひきのあま)の娘。後白河天皇の側室でもあった。本名は高階栄子(たかしなえいし)と言い、島津忠久を産んだと伝わる。
島津忠久は平安時代末期~鎌倉時代前期の武将で鎌倉幕府の御家人。
誕生石は丹後局の伝説により安産を祈る聖地になっています。
丹後局の伝説とは
鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えていた丹後局は源頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子を身籠った。源頼朝の正室(本妻)である北条政子はこれに怒って暗殺を命じたが失敗に終わった。
丹後局は西国へと逃れ、摂津国住吉に辿り着くと、狐火(きつねび)に導かれて住吉大社に至った。社頭に着くと丹後局は産気づき、大石を抱きながら男児を出産した。その時生まれた子が薩摩藩島津氏の祖となった島津忠久。
源頼朝と丹後局の伝説は各地に残されているが、これが住吉大社に伝わる丹後局の伝説で、誕生石は島津家代々から厚く信仰されてきた。
なお、狐火とは人が灯していないのに火が燃える現象。鬼火とも言われる。
安産祈願をする時は次の手順でまわります。
- 祈祷殿に安産祈願をうける(腹帯があれば受付の時に渡す。)
- 本殿に参拝(特に第四本宮の神功皇后は安産の神)
- 誕生石に参拝(石を拾って御守にする)
誕生石は大鳥居から見て太鼓橋(反橋)を渡った左にあります。
③鉾社・楯社
鉾社(ほこしゃ)と楯社(たてしゃ)は武神として本宮を守護する役割がある末社で、鉾社には経津主命(ふつぬしのみこと)が、楯社には武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られています。
経津主命は開運招福、厄除などの御神徳を、武甕槌命は武道守護や芸能上達の御神徳をお持ちです。
もっと詳しく
武甕槌命は武神・軍神・雷神。古事記では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が伊邪那美命(いざなみのみこと)の死因となった火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を十拳剣(とつかのつるぎ)で斬った時、剣の鍔(つば)についた血が石に飛び散って生まれた神。本社は茨城県の鹿島神宮。
経津主命は剣神・軍神で日本書紀にのみ登場する神。日本書紀の一書では伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が軻遇突智(かぐつち)を斬った時、剣から滴り落ちた血が天安河原(あまのやすのかわら)にある五百箇磐石(いおついわむら)となる。その岩の御子神が経津主命。本社は千葉県の香取神宮。
鉾社は第三本宮の左手前に、楯社は第四本宮の右手前にあります。
④侍者社
侍者社(おもとしゃ)は住吉大神にお供えする神饌(しんせん/お供物)を検視する役割を担う重要な末社です。
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住吉大社では住吉大神にお供えする神饌はまず侍者社の御祭神に検視を願い、それから本宮にお供えする侍者先祭の慣わしがある。侍者社の由来は住吉大神の最もそばに祀ることから侍者(おもと)になったとされている。
御祭神は住吉大社で代々宮司を務める津守氏の祖で、神功皇后に代わって住吉大神を祀った初代神主の田裳見宿禰(たもみのすくね)と、その妻神である市姫命(いちひめのみこと)です。
神主は神と人を結ぶ役目があることから縁結びのご利益があり、また夫婦神が祀られていることから夫婦円満のご利益もあります。
ちなみに侍者社では縁結びの祈願、もしくは夫婦円満の祈願ができます。手順は次の通りです。
- 授与所に行き、縁結びならおもと人形(初穂料1000円)、夫婦円満なら裸雛(はだかびな/初穂料2000)を頂く
- 侍者社でおもと人形、もしくは裸雛に氏名、生年月日を記入して参拝する
- 参拝後、恋みくじ(初穂料200円)をひいて神様からのお言葉を頂く
出典 住吉大社
侍者社は第二本宮の右手(南側)にあります。
⑤楠高社
楠高社(くすたかしゃ)は巳神様(みいさん)が宿る大楠の祠です。年に数回ほど巳(蛇)が姿を現し、姿を見ることができたらラッキーとされています。
御守授与所には楠高社の神巳守(かんみまもり)もあり、金運上昇や開運招福のご利益があります。(初穂料一体1,000円)
楠高社は伊勢遥拝所の奥、楠珺社の手前にあります。
⑥星宮
星宮(ほしのみや)は星の神様と言われる国常立命(くにのとこたちのみこと)と火の神様である竃神(かまどのかみ)が祀られている末社です。
国常立命は開運招福や商売繁盛、厄除けなどの御神徳を、竃神は火難除けの御神徳をお持ちです。
星宮例祭日である七夕には願い事が書かれた短冊を大笹につけて祭典が行われます。
出典 住吉大社
もっと詳しく
国常立神は古事記では神代七世の最初の神様。別天津神(ことあまつかみ)の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた。日本書紀では世界の始まりの時に出現した最初の神様。
竃神は台所に祀られている神様。
星宮は種貸社を正面に見た右手(東側)にあります。
⑦后土社
后土社(ごどしゃ)は住吉大社境内全域を守護する土地の神様である土御祖神(つちのみおやのかみ)が祀られている末社です。
后土社は星宮から東に進んだところにあります。
⑧五社
五社(ごしゃ)は住吉大社の神職七家祖神が祀られている末社で、左から
- 神奴社(神奴社の祖神)
- 大宅社(大宅の祖神)
- 高木社(高木の祖神)・津社(津の祖神)
- 狛社(狛の祖神)・板屋社(板屋の祖神)
- 大領社(大領の祖神)
となっています。
神職七家祖神とは
初代神主である田裳見宿禰(たもみのすくね)の7人の子から始まる神職の家。
五社は后土社の右手にあります。
⑨招魂社
招魂社(しょうこんしゃ)は諸霊神(もろもろのみたまのかみ)を祀っている末社です。神職をはじめとして住吉大社に縁が深い先人たちを祖霊神として祀っています。
もっと詳しく
現在の社殿は神仏習合の時代に護摩堂として使われていたお堂。明治維新の神仏分離により住吉大社にあった数々のお堂は廃寺となったが護摩堂のみ残され、招魂社の社殿として転用されている。
招魂社は五社の右手にあります。
➉薄墨社
薄墨社(うすずみしゃ)は第39代津守神主の津守国基(つもりのくにもと)の祖霊神「国基霊神(くにもとのみたまのかみ)」が祀られている末社です。
もっと詳しく
国基霊神は神主職と朝廷の官職を兼務して活躍したが名高い和歌の名手でもあった。後拾遺和歌集にとられている名歌「薄墨にかく玉づさと見ゆるかな霞める空にかへる雁がね」にちなんで薄墨の神主の異名があり、薄墨社と称えられている。
招魂社の右手にあるのが薄墨社です。
⑪斯主社
斯主社(このぬししゃ)は第43代津守神主である津守国盛(つもりのこくもり)の祖霊神「国盛霊神(こくもりのみたまのかみ)」が祀られている末社です。
もっと詳しく
津守国盛は源頼朝と祖父が同じで頼朝や義経の従兄弟にあたり、源氏興隆の基を開いたとされる。国守明神として厚く崇敬され、住吉名勝図会(すみよしめいしょうずえ)には「住吉大社の荒魂(あらみたま)」と記されている。
住吉名勝図会は江戸時代末期に刊行された住吉大社の名所や旧跡、景勝地などを風景画と共に解説している地誌。
薄墨社の右手にあるのが斯主社です。
⑫今主社
今主社(いまぬししゃ)は第48代津守神主である津守国助(つもりのくにすけ)の祖霊神「国助霊神(くにすけのみたまのかみ)」が祀られている末社です。
もっと詳しく
津守国助は異常に霊感が優れていた。二度の元寇でモンゴルが北九州を攻めて日本侵略を試みた時は、住吉大社でも朝敵降伏の祈願をしたと伝わる。
斯主社の右手にあるのが今主社です。
⑬八所社
八所社(はっしょしゃ)は京都にある八坂神社の祇園信仰のお社で、疫病・厄除け・暦・方位の神である盞素嗚尊(すさのおのみこと)が祀られている末社です。住吉大社では創業の守護神として崇敬されています。
祇園信仰とは
元々は陰陽道の神である牛頭天王(ごずてんのう)の信仰。牛頭天王は疫病除けの神で盞素嗚尊と同神とされる。
今主社の右手にあるのが八所社です。
⑭新宮社
新宮社(しんぐうしゃ)は熊野の神が祀られている末社です。
御祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)・事解男命(ことさかのおのみこと)・速玉男命(はやたまのおのみこと)で、延命長寿や無病息災、出世成功など幅広い御神徳をお持ちです。
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伊邪那美命は夫である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と共に天降って国生みを行い、その後神々を生んだ神。
事解男命と速玉男命は日本書紀に登場する神。伊弉諾尊(いざなみのみこと)が死んだ伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追いかけて黄泉の国へ行った時、姿を見ないで欲しいと言われたのにも関わらず見てしまった。穢れた姿を見た伊弉諾尊が引き返そうとすると伊弉冉尊は別れましょうと言い、伊弉諾尊は負けないと言い返した。その時に吐いた唾から生まれたのが速玉男命、次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。
平安後期から鎌倉時代、住吉大社の東方位側に通る熊野街道沿いには、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の遥拝所として一里(約4㎞)ごとに熊野三所権現(熊野三山に祀られている神々の総称)を祀っていました。
数の多さから熊野九十九王子と呼ばれ、その内の1つ津守王子社が現在の新宮社であると伝わり、新宮社の右にある立て札には王子社と記されています。
八所社の右手にあるのが新宮社です。
⑮貴船社
貴船社(きふねしゃ)は水・雨を司る高龗神(たかおかみのかみ)が祀られている末社です。運氣隆昌や所願成就、縁結びの御神徳をお持ちです。
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日本書紀のみに出てくる神様で、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を斬って生まれた三柱の神のうちの一柱。高龗神の龗(おかみ)は龍を意味する古語。
貴船社の創建は不明ですが、京都の貴船神社から勧請(かんじょう)されて祀られています。
勧請(かんじょう)とは
分霊を他の神社に移すこと。分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされている。
楠珺社の裏手(南側)にあるのが貴船社です。
⑯立聞社
立聞社(たちぎきしゃ)は祭祀や祝詞を司る天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られている末社です。開運厄除や所願成就の御神徳をお持ちです。
縁切りの神様としても崇敬されていて、お酒やタバコをやめるために訪れる参拝客も多くいます。
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太陽神である天照大御神が天岩戸(あめのいわと)に身を隠した時、天照大御神の気を引こうと祝詞を奏上したのが天児屋根命。天宇受売尊(あめのうずめのみこと)の踊りなど、神々が協力したことで天照大御神が再び世に現れ、世界に太陽の光が戻った。
立聞社では決意守を納めることもできます。商売の拡大や仕事、就職などの勝負時に祈願してみてください。
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決意守に決意表明と名前、日付を書いて神様への誓いとする。決意守の初穂料は500円。
貴船社の右手にあるのが立聞社です。
⑰海龍社
海龍社は龍神信仰をもつ祠で龍神が祀られています。
五所御前のすぐ隣(南側)にあるのが海龍社です。「海龍社」と書かれた神額がかかっている南側から参拝します。
⑱若宮八幡宮
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は神功皇后の御子神である誉田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)と、神功皇后の新羅遠征の際に共に軍を率いた武内宿禰(たけのうちのすくね)が祀られている摂社です。
誉田別尊は家運隆昌や所願成就、災難除けなどの御神徳を、武内宿禰は延命長寿や武運長久の御神徳をお持ちです。
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誉田別尊は息長足姫命(神功皇后)の御子神の第15代応神天皇の名で知られているが、八幡の神でもある。八幡信仰の起源は欽明天皇の時代(571年)、豊前国(現大分県)宇佐の地で「われは誉田の天皇広幡八幡麿(すめらみことひろはたやはたまろ)なり」という八幡神のお告げにより八幡総本宮宇佐神宮で祀ったのが起源。「われの名は護国霊験威力神力大自在王菩薩(ごごくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、神道として垂迹(すいじゃく)せしものなり」と告げたことで仏教の守護神にもなった。(八幡大菩薩と呼ばれる)垂迹とは、仏や菩薩が民衆を救うために仮の姿で現れることを指す神仏習合思想。古事記では品陀和氣命、日本書紀では誉田別尊と記される。
武内宿禰は360歳まで生きた伝説があることから延命長寿の神として崇められている。古事記では孝元天皇の皇孫。五代の天皇(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇)に224年間に渡って仕えた。古事記では建内宿禰、日本書紀では武内宿禰と記される。
若宮八幡宮は海龍社の隣(西側)にあります。
⑲石舞台
住吉大社の石舞台は約400年前の1607年(慶長12年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が寄進したものです。
石舞台は桃山時代の建造物で、大阪府の四天王寺や広島県の厳島神社と共に日本3大石舞台の1つとされ、重要文化財に指定されています。
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豊臣秀頼は安土桃山時代~江戸時代前期の大名。父は秀吉、母は淀殿。秀吉の三男にあたる。
豊臣家は秀吉の時代から住吉大社を厚く崇敬していた。淀殿は秀頼の成長を祈願して太鼓橋(反橋)を奉納し、秀頼は本殿や摂社末社、境内各所の造営に力を注いだ。
毎年5月の最初の卯の日には、住吉大社の創立記念日を祝う卯之葉神事(うのはしんじ)が石舞台で行われ、舞楽が奉納されます。
石舞台は若宮八幡宮の南側にあります。
⑳卯の花苑
住吉大社の卯の花苑(うのはなえん)は大阪市内に残る数少ない卯の花の名所です。(卯の花13品種、約500株)
住吉大社の起源が「卯の年・卯の月・卯の日」だったことから、卯の花は住吉大社に深く関係する花とされています。
一般公開は5月初旬~5月末までで、毎年5月初めの卯の日(13時頃)には卯の花苑でも卯之葉神事が執り行われます。
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卯の花は「ゆきのした科」のウツギという落葉低木。かつては住吉大社境内にも群生していたが時代と共に失われた。住吉名勝保存会は大阪市の協力により北海道から九州までのウツギの自生地を調査し、日本で現存するほぼ全種類を移植した。1986年(昭和61年)住吉名勝保存会の協力もあって今の卯の花苑が造成。後鳥羽院皇子光台院親王の歌碑も併せて設立された。
卯の花苑は住吉武道館の前にあります。
㉑絵馬殿
絵馬殿(登録有形文化財)には様々な大絵馬があります。
- 日本廻国一之宮巡拝満願成就
- かっぽれ生誕200年の奉納額(かっぽれのルーツは住吉踊り)
- 巡洋艦・加古の元乗組員が無事帰還を感謝して奉納した額
- 報国丸のマストの故事を伝える奉納額(日露戦争中に戦死した広瀬中佐等を称え奉納)
- 能・岩船の奉納額(岩船は住吉が海外交易の発着地)
- 舞楽・還城楽の奉納額
- 謡曲の額(高砂、松虫、梅枝など住吉と関係が深い演目が多い)
- 同聲会の奉納額(演目に高砂が含まれている)
- 大阪府弓道連盟の奉納額(武神 神功皇后への奉納額)
- 天神真揚流柔術の奉納額(武神 神功皇后への奉納額)
今ある絵馬殿は2棟(参道を挟んで1棟ずつ)ですが、明治20年代の終わり頃には3棟あったようです。
出典 長崎大学附属図書館
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写真に写る絵馬殿は2棟だが、参道を挟んでもう1棟ある。参道に石畳が寄進されたのが1900年(明治33年)なので、写真はそれ以前のものになる。
ちなみに、北側の絵馬殿付近には神馬舎もあります。普段は神馬「白雪号」はいませんが、毎年1月7日の白馬神事(あおうましんじ)や夏の住吉祭の時に見ることができます。
絵馬殿は表参道の大鳥居を進んだ先の左右にあります。
㉒吉祥殿
吉祥殿(きっしょうでん)では結婚式や宴会、会議だけでなく、予約をすれば個人でも食事を楽しむことができます。
吉祥殿は住吉大社の北西にあります。(誕生石の近く)
住吉大社のアクセスマップ
■住吉大社
【住所】大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89
【アクセス】・南海電鉄南海本線 住吉大社駅徒歩3分/南海本線 住吉大社駅徒歩5分
・阪堺電気軌道(路面電車)阪堺線 住吉鳥居前駅徒歩すぐ
【駐車場】駐車台数約200台 1時間毎200円
*正月や住吉祭の期間は公共交通機関がおすすめ(周辺で交通規制がかかり駐車場は閉鎖される)
まとめ
約3万坪もある住吉大社の境内は本殿4棟、摂社末社27社、その他多数の名所旧跡があります。ぜひ一度参拝してみてください。